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【連載】お腹で分かるあなたのカラダ やさしい漢方入門・腹診 第二回「腹診の歴史」

漢方の診察で必ず行われる「腹診」。指先で軽くお腹に触れるだけで、慣れた先生になるとこの腹診だけで大凡の患者さんの状況や見立てができるといいます。「でもそんなこと難しいでしょう」と思うところですが、本連載の著者・平地治美先生は、「基本を学べば普通の人でも十分できます!」と仰います。そこでこの連載ではできるだけやさしく、誰でも分かる「腹診入門」をご紹介します。

お腹で分かるあなたのカラダ やさしい漢方入門・腹診

第二回 「腹診の歴史」

文●平地治美

腹診でわかること

 私が本でも書いた舌診は、見ることによって内部をうかがい知る診断方法で、漢方では〝望診〟に分類されますが、今回の腹診は実際に触って行う診断で〝切診〟に分類されます。

 この腹診はさまざまなことを教えてくれます。その一部を紹介しますと……、

  • 胃腸の状態

  • 生まれ持った体質や性格

  • かかりやすい病気

  • ココロの状態

  • 卵巣や子宮など婦人科系の状態

などなど様々です。

 腹診では肋骨から下腹部(鼠径部)までの状態を診ます。

 一見すると、何をしているのか分からないと思いますが、骨・皮膚・筋肉から色々なことが分かります。例えば、

  • 肋骨のつき方からは太りやすい、痩せやすいなどの本来の体質がわかります。

  • 皮膚(表皮やその下の真皮)の状態からは、気の巡りや胃腸の働きがわかります。

  • 腹直筋は橋のように肋骨から鼠径部をつなぐ長い筋肉ですが、この腹直筋の緊張の度合いからは現在のカラダの状態、本来の性格など、さまざまなことを教えてくれます。

 もう少しカラダのなかを探るように押すと内部の臓器(胃腸、子宮、肝臓)の様子などを知ることができます。

 時々、お腹に触れただけでくすぐったがったりする方もいらっしゃいますが、この場合はもともとの体質が虚弱か、かなりカラダが弱っていると判断します。

 また、触った時の冷たさや温かさからは体の寒熱がわかります。胃の部分だけが冷たい人もいますが、そうした人は食べ物や食べ方に問題があることが多いですね。

 触ってカラダのなかに塊があったり痛みがある場合、血が滞っていたりすることが多いです。このときは下腹部のどの場所に塊があるかによって処方が決まることもあります。

日本における腹診の歴史

・日本漢方と腹診

 前の回にも少し書きましたが、現在、日本国内で行われている漢方の流派は、大きく分けると中医学と日本漢方に分かれます。

 診断に関して大まかに言うと、中医学は舌診や脈診を得意とします。八綱弁証(はっこうべんしょう)という方法によって陰陽、表裏、寒熱、実虚、と分類して治療方法を論理的に決定します。

 それに対して日本漢方は腹診を得意とし、体全体を観ることを得意としています。

 日本漢方の中心となる方証相対(ほうしょうそうたい)という考え方は、よく〝鍵と鍵穴〟に例えられます。

 例えば葛根湯という方(処方)に対する証は〝首から背にかけて強張り、汗が出ておらず、寒気がする〟というものです。またはお腹のこの部分に硬いしこりがあれば◯◯湯、といった具合で処方を決める手掛かりとします。

 日本漢方における腹診は、鎖国をしていた江戸時代に独特の発展を遂げた、日本独自の診断技術です。

 そしてこの腹診が発達したのは、次にご紹介する吉益東洞(よしますとうどう)の影響が大きいといえます。

・吉益東洞について

 日本漢方の基礎を築いた代表的人物といえば、なんと言っても江戸時代のカリスマ医・吉益東洞です。

 ここでは東洞がどんな人物だったのか、簡単に紹介しておきましょう。

 東洞は元禄15年(1702年)に安芸国山口町(現在の広島市中区)で生まれました。19歳のときに医学を志し、祖父の門人に学んだ後は張仲景(張機とも)とその著『傷寒論』のみを師とし独学で勉強をしていました。

 この頃から東洞は常識にとらわれない独創的な考え方をしていたようです。

 たとえば東洞は、当時は常識であった妊婦の腹帯を無用のものとし、出産をスムーズに行い評判だったといいます。

 そして自分の医説に自信がついた37歳で大志を抱いて京に上ります。

 しかし初めは医業だけでは生計が立たず、人形づくりなどの内職をしてやっと生活していたそうです。その頃に作った人形は今も「東洞人形」としていまも残っています。

 それでも貧乏生活は続き、さらに追い討ちをかけるように盗難に遭ってしまいました。

 この時、東洞は、七日間の断食をして、今後の運命を天に問いました。

 その成果でしょうか、東洞に大きなチャンスが訪れます。

 44歳の時、人形の卸問屋のおばあさんが傷寒(急性熱性疾患)にかかっていると聞いた東洞は

「是非一度、自分に診察をさせてほしい」

と申し出て、おばあさんが処方されている薬を見ると、

「この処方で良いと思うが、石膏を除いたほうがよい」

と言い残して帰りました。

 このおばあさんを診察していたのが、当時の京でもっとも名医の誉れの高い山脇東洋先生でした。

 東洋先生が次の診察日に、おばあさんの家に訪れたところ、家の者が「実は……」と東洞の意見を伝えました。

 実は東洋先生も処方から石膏を入れるか抜くかをずっと迷っていたところで、そこをズバッと東洞に指摘されたのですから、

「そうとうデキるやつだ…..」

と思ったに違いありません。

 診察が終わるやいなや、東洋先生は東洞を訪ねましたところ、人形作りでおが屑だらけの部屋には、『傷寒論』が一冊置かれていたそうです。

  この一件で東洞は東洋先生に認められ、大きく飛躍していきます。

 東洋先生はその腕の良さを認め、地方出身で地位も名も無い東洞を引き立てたのです。

 東洋先生と人形屋の主人の援助を得て、東洞の人形屋は診療所へと生まれ変わり、その後はその腕前から患者を順調に増やし、入門を希望する者も多く、江戸期の漢方医を代表する名医の一人として名を馳せました。

万病一毒論

 東洞の独自性は、それまでの難しかった既存の医学を、

「空理空論で使えない」

と一蹴し、独自の医説を打ち立てたところにあります。

 その東洞の医説の柱は

“万病一毒説”

“眼に見えぬものは言わぬ”

この二つです。

 そして万病一毒説は、

“あらゆる病気はただ毒により起こる”

 という考え方です。

 つまり、病気の原因はなんらかの理由によって体内の毒が動くことであり、この毒を毒薬で攻めて駆除するのが治療である。ですから、毒を取り去ることが万病を根治する必須条件でした。まさに「毒を持って毒を制す」というわけです。

 ただ“毒”と聞くと、“毒薬”や“飲んだらすぐ死ぬ”というイメージを持つ方が多いでしょうが、ここで東洞が言っている“毒”は梅毒のような細菌や、誤った生活習慣などにより体内に生じた“滞り”のようなものなどを指しているようです。

 とはいえ、この毒に対処するために過激な薬を使うことも多かったようです。

 東洞の患者には梅毒の患者が多く、いまでこそ適切な治療をすれば死ぬことのない梅毒ですが、当時は死に至る病であり、その治療には水銀剤を多く使用ていましされた。

 また、当時の江戸で広く行われていた金元医学(中国の金・元王朝時代(1115‐1367)に成立した医学)が中心で、梅毒自体が金元医学の時代には存在しなかったため、具体的な治療法がありませんでした。

 そうしたことから、東洞はそれまでの医学理論を、

「空理空論で使えない」

と一蹴し、自ら水銀剤を使う治療法を編み出したのでした。

 ただ、ご存知のとおり水銀は中毒症状を引き起こす猛毒です。

 まさに毒を持って毒を制していたわけで、激しい副作用である“瞑眩(めんげん)”と呼ばれる一時的に症状が悪化することも多かったのですが、東洞は、

「瞑眩が出るのは薬が効いている証拠」

とし、恐れることなく躊躇せずに使っていたようです。

 東洞は強い信念を持って治療に当たっていたため、自分の家族に対しても他の患者と同じような治療をしました。残念ながら病気の力の方が勝っている場合は最善を尽くしても亡くなるわけですが、それは、

「天命である」

としました。

 この「天命説」は、反対派からは、

「自分の治療の失敗を認めず、天命ということで言い逃れているのではないか」

と批判され一世を風靡する江戸の大論争となりました。

 また、東洞のもう一つの主義は先ほども登場した、

“眼に見えぬものは言わぬ”

 ということです。つまり、

「眼に見えるもの・手でつかむことのできるものでなければ相手にしない」

という実証主義に立っていました。

 ですから、万病一毒の“毒”も、眼で見られるもの、手でふれられるものでなければならないとしました。もしカラダのなかにに毒があれば、その証拠は体表に現われ、またその多くは、

「腹診によって確かめることができる」

としました。

 この考え方が、日本で腹診が発達をとげる土台となりました。

 患者の脈を取る脈診に比べると腹診は、「硬い」「冷たい」など比較的誰にでもわかりやすいのも日本人の気質に合っていたのかもしれません。

 東洞は薬に関しても実証主義を貫き、一味一味を検証してその薬効を確かめました。書物に書いてあることでも自分で確かめられないことは採用しませんでした。

この二つの柱が中心の東洞の医説はシンプルでわかりやすく、絶大な支持をうけて入門希望者が殺到し、押しも押されぬ名医として日本漢方の基礎を築いたのでした。

(第二回 了)

-- Profile --

著者●平地治美(Harumi Hiraji)

1970年生まれ。明治薬科大学卒業後、漢方薬局での勤務を経て東洋鍼灸専門学校へ入学し鍼灸を学ぶ。漢方薬を寺師睦宗氏、岡山誠一氏、大友一夫氏、鍼灸を石原克己氏に師事。約20年漢方臨床に携わる。和光治療院・漢方薬局代表。千葉大学医学部医学院非常勤講師、京都大学伝統医療文化研究班員、日本伝統鍼灸学会学術副部長。漢方三考塾、朝日カルチャーセンター新宿、津田沼カルチャーセンターなどで講師として漢方講座を担当。2014年11月冷えの養生書『げきポカ』(ダイヤモンド社)監修・著。

個人ブログ「平地治美の漢方ブログ」

和光漢方薬局

著書

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