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超人になる! 第六回「身体の外、そして宇宙の外」 ※有料

生きるということの中には、様々な英知が凝縮されています。 誰もが持っている「身体」と「生命」を通して、 その見えざるものを掘り起こし、共通言語に変えていくことで、 ヒトはヒトを超えた何かへと変容できるかもしれません。 大きな夢と希望を持ち、明日の世界へと進むための生命学講座、

第6回をお届けします!

超人になる!

第六回「身体の外、そして宇宙の外」

長沼敬憲

私のなかに私はいない?

 前回の連載では、生命活動の根幹にある「直観」について掘り下げていくなかで、「私という存在は身体の中にはいないのかもしれない」という、ちょっと変わった仮説が導き出されました。

「脳のなかにも、腸のなかにも“わたし”はいない。いや、ないどころか、それは外部からもたらされるものかもしれないわけです」

……最後をそのような一文で結んだわけですが、脳で作り出されるタテマエと、腸から生み出されるホンネ、どちらも自分の内部で生み出されるのであって、自分そのものではありません。

 正確に言えば、脳も神経系の一部ですから、脳で直観をキャッチしている器官であるかのようなとらえ方もできなくありませんが、実際には直観の発露を邪魔し、歪ませる方向に働いているでしょう。

 脳は肥大化する過程で、外部の情報をキャッチする神経系としての役割から遠ざかってしまった面もあるわけです。

 一方、腸の働きと連動している感情にしても、生物としてはより根源的な、その意味でホンネと呼びうる強さを持っていますが、ひらめいたり、気づいたり、自己知につながる感覚とは違います。

 どちらにせよ、思考(脳)も感情(腸)も内部で生じるもので、外部からもたらされる直観とイコールとは言えません。

 実際、昔の人はこれらの器官から生み出される思いを大括りに「心の産物」ととらえ、直観的なものと分けてとらえてきた節があります。なぜなら、「心」に対置する形で「霊」や「魂」という言葉が用いられていたからです。

 これらは身体活動で生み出されるものではなく、外部から宿るものとして意味づけられています。  ここではあまりスピリチュアルなイメージと結びつけず、あくまで身体用語としてとらえてください。私たちの祖先は、自分の内部で生じる「心」とは違う何ものかを「霊」や「魂」と定義して、自己の本質と重ね合わせてきたのです。

 こうしたとらえ方にピンと来ない人は、もっとシンプルに、霊や魂を「生命」という言葉に置き換えてイメージしてもいいかもしれません。生命も宿るものであって、湧いてくるものではありません。

 そもそも、生命のない「からだ」は、ただの「死体」にすぎません。実際、英語では死体のことをBodyと言いますが、生命が失われると、体だけでなく、心も動かなくなります。

 ここではあまり難しく考えず、「心・体・魂」の折り重なったものを「身体」と総称し、この身体によって一つにとどめられたものを「わたし」と呼ぶことで、話を進めていきたいと思います。

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-- Profile --

著者長沼敬憲(Takanori Naganuma)

1969年、山梨県生まれ。エディター&ライター。 20代の頃より身体や生命のしくみに興味を持ち、様々な経験を積む中で身体感覚としての「ハラ」の重要性に着目。30代で医療・健康・食・生命科学の分野の取材を開始し、様々な書籍の企画・編集を手がける。 著書として、ロングセラーとなった『腸脳力』(BABジャパン)、『この「食べ方」で腸はみるみる元気になる!』(三笠書房)。エディターとしては、『死と闘わない生き方』(土橋重隆・玄侑宗久/ディスカヴァー・トウェンティワン)、『「筋肉」よりも「骨」を使え!』(甲野善紀・松村卓/ディスカヴァー・トウェンティワン)、『ゆるめる力 骨ストレッチ』(松村卓/文藝春秋)、『栗本慎一郎の全世界史』(技術評論社)、『腸を鍛える』(光岡知足/祥伝社)など。2014年1月、読者有志と「ハラでつながる会」を設立。毎月1回、東京都内などで「身体感覚セミナー」を開催中。

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