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超人になる! 第七回「身体の海、禅の宇宙へ」

生きるということの中には、様々な英知が凝縮されています。 誰もが持っている「身体」と「生命」を通して、 その見えざるものを掘り起こし、共通言語に変えていくことで、 ヒトはヒトを超えた何かへと変容できるかもしれません。 大きな夢と希望を持ち、明日の世界へと進むための生命学講座、 第7回をお届けします!

超人になる!

第7回「身体の海、禅の宇宙へ」

文●長沼敬憲

脳の外に“私”はある?

 わたしという存在の本質は、この世界の内部にあるのではなく、(原理的に想像すらできない)外部にある?

 ――前回の連載でそんな一つの解にたどり着くことができました。

 自分の内部にある限り、それは自分が生み出したものの一部であり、「では、その生み出したものは何か?」という問いかけは終わりません。そうした堂々巡りの問いから抜け出さない限り、「私という存在」を生み出している大元の部分にアプローチすることなどできないと思うです。

 それは一つの皮肉として、

「考えても絶対にわからないものを認める」

ということを意味します。  なにしろ自分の認識できる世界の“外”にあるものを認識しようということになりますから、その言葉自体が大きな矛盾のなかにあるということを知らなければなりません。  つまり、いくら知ろうとしても、原理的に知り得ないことがある。

 身体的に言うならば、脳がどれだけ発達し、知性が発揮されようが、認識すらできない懸絶した領域が自分の外に存在するということです。

 直観と呼ばれるものが単なる思いつきのたぐいではないとするならば、そうした問いかけはどうしても必要になってくるはずですが、現実にはなかなかそこまでは考えられません。  脳はあくまで自分が認識できる枠のなかでこの世界の像を描き出し、そこに自分なりの物語を付与することで、自分が生きていることの現実を受け止めようとするからです。

 脳が認識できることが増えると、その分、自分の世界が広がると感じるわけですが、いくら世界が広がろうが、それはお釈迦様の手のひらの中。そう、脳が認識できる物理的宇宙、心理的宇宙がどれほど広大であろうと、仮に“わたし”の存在が自分の外にあるのだとしたら、結局それは脳という「井の中の蛙の物語」かもしれないのです。

 前置きが長くなってしまいましたが、ちょうど“お釈迦様”の話も飛び出したこともあり、前回の連載で予告した(→こちらを参照)、禅僧・藤田一照氏との公開トークを振り返ってみることにしましょう。

 9月19日、禅の「十牛図」をめぐるトークイベントを、ゲストである藤田氏の住まう葉山・茅山荘にて開催させていただいたわけですが、まずは氏がこうした「わたし」の存在をどうとらえているのか? 興味を引いたコメントをいくつか抜粋してみたいと思います。

(引用はじめ)

一照 ものって全部バラバラに見えているじゃないですか。このコップも、紙とか机とかも。  それを前提に、これとこれがどう関係しているのかという問題を立てて、それで問題を解決していこうというアプローチが一般的な科学だと思うんですけど、(焚いたお香を指しながら)たとえば、こうすると煙がモクモクきていろんな形を取りながら立ちあがっていきますよね?

 これは何かが働いているわけです。これをこういうふうに成り立たせている働きというのは、僕にも働いているはずですよね?  そういう働きはどれも同じと言うしかないでしょう? あそこだけ働いて、僕だけ働いていないということはないわけだから、働きという観点で見たら全部が全部同じ一つの……大いなる生命とか、格好よく言うとそういうことになる。僕は、そういう方向のわかり方も必要なんじゃないかと思っているんです。

(引用おわり)

 ちなみに、公開トークのテーマとなった「十牛図」とは、中国に古くから伝わる禅の悟りに至る道筋が描かれた物語で、その名の通り、次の10の絵から成り立っています。

図1・「十牛図」は禅の悟りのプロセスを、牛を探す牧童の旅になぞらえ、10枚の絵に表したもの。牧童が探す牛は仏教で言うところの「自己」を指す。

 話が脱線してしまうので深入りしませんが、これもまた、とらえどころのない(あくまで脳にとってですが)自己の本質を探るための、仏教が編み出した一つの“方便”と言っていいものです。

 脳がこの世界をありのままに認識できないところに、私たちが生きることに躓いてしまう大きな原因があると考えてもいいでしょう。それは、これまでの連載で述べてきた、脳が身体運動を邪魔している(=考えることがありのままの動きを妨げている)現実とも重なり合います。  「超人」について想起するのであれば、心理的にせよ、肉体的にせよ、なによりもその壁を打ち破る必要があるのです。

孤独感は幻想なのか

 さて、先ほどの藤田氏のコメントのなかでポイントとなるのは、

 すべてに同じ働きが宿っている。それこそが“大いなる生命”である

 というくだりでしょう。誰もが同じ生命を持っている、その言葉自体に異存はないかもしれませんが、注意したいのは、それは科学で言うところの生命活動と必ずしも重なり合わないという点です。

図2・生物の定義 (石浦章一『タンパク質はすごい!』(技術評論社)より)

 図2に表したように、科学の世界では、生命は

  1. 細胞を持ち、

  2. 自己複製し、

  3. 代謝し、

  4. 外からの刺激に応答するもののなかで働いている、

ととらえますが(それが生物の定義になります)、氏は、“お香の煙”も含めて生命と呼んでいるからです。

 科学でとらえるところの生物、非生物を問わず、藤田氏は(というよりも禅の教えでは)、この世界を成り立たせている根底にあるものを「働き」ととらえ、すべてはそれとつながっているはずだ、と説きます。

 曹洞宗の開祖にあたる道元禅師は、それを

「尽十方界真実人体」(この世界のすべてが人の体である)

という言葉で表しています。  つまり、すべてが最初からつながっている、この世界に孤立したものなど何一つない。ただそれを、脳だけがうまく感じとれない、それゆえに自他の境界を意識し、孤立感を抱いたり、外部との軋轢を生んだりするわけです。

(引用はじめ)

一照 全体とつながっているはずなのに……いや、つながってはいるんですよ、じつは。でも、あたかもつながっていないかのように生きているから、いろいろつながっているはずなのにそれがわからない。

 つながっていないと思っていても、実際はつながっている。ここが難しいところなんですね。「つながってない」というと「つながらなきゃいけない」と思うんだけど、じつはその必要はないんです。

 でも、つながっているのにつながっていないかのように暮らしていると、そのズレからいろんな症状がムシムシ立ち上がってくるわけですよ。人間関係だったり、体の病気だったり、心の不調だったり。そうしたものが気づきのサインとして現れる。

(引用おわり)

 ここでいう「働き」や「つながり」はこの世界を根底で支えている法則のようなものですから、それをただあるがままに認めればいいわけで、わざわざ世界の外を想起する必要はないと思われるかもしれません。

 ご存知の人もいるかもしれませんが、これはお釈迦さま=仏陀がある修行者と行ったとされる「毒矢のたとえ」のやりとりとも重なってきます。  修行者が「世界は永遠なのか、有限なのか、生命と身体は同一のものなのか、人は死後も存在するのか」と問うてきたことに対し、

「毒矢に射られ苦しんでいる人がいるのに、その人の身分や階級、弓の種類、矢の種類などについて知られないうちは治療しないなどという医者がいたら、その人は死ぬだろう」

 お釈迦様はそう答えたとされています(パーリ語経典中部63経『小マールキヤ経』より)。要は、答えようがないものにあれこれ悩んでいる前に、まずは毒矢を抜くことを考えなさい(=修行をして生命の世界につながりなさい)ということでしょう。  一般的には、お釈迦さまは修行者の質問に「無記」(ノーコメント)と答えたと解釈されています。おそらくこうした態度は、禅の基本姿勢とも根底で重なってくるものかもしれませんが、話はここで終わりません。

 なぜなら、答えようのないものに悩む必要は確かにありませんが、お釈迦さまはそうした答えようがないもの(ここでは認識世界の外にあるもの)が“ない”とまで言っているわけでもありません。

 それどころか、禅の悟りと呼ばれるものも、それが直観と結びついているのであれば、そうした外からやってきたものによって覚醒されるはずです。そう、冒頭で述べてきた“直観の源をこの世界の外部に置く”という発想は、「毒矢のたとえ」に当てはまらない面もあるのです。

脳が作る虚像

 大事なポイントなので、少々ややこしいところがありますが、もう少し解いていってみましょう。

 お釈迦さまが「毒矢のたとえ=考えても仕方がないこと」と見なしているのは、「脳が作り出す無用な観念」と言い換えてもいいものです。  それが“正しい認識”を妨げ、あるがままの世界を見えなくしていることは確かかもしれませんが、ここまで注目してきた「直観とは何か?」について探ることはむしろ“正しい認識”につながる可能性もあります。

 なぜか? そこには「脳が作り出したものの外に出る」という発想も内包されているからです。

 その意味では、私たちはまず、「この世界のつながりのなかに自分が属していると実感できているか?」、問うてみる必要があるかもしれません。  自分が認識している世界は、脳がそうだと勝手に思い込んでいる「虚像」にすぎず、そうした虚像のなかに身を置いているからこそ、現実世界との間にズレが生じ、「そのズレからいろんな症状がムシムシ立ち上がってくる」(藤田氏)可能性があるからです。

 前述の「十牛図」は、そうした見失ったものを牛にたとえ、「牛を見失った牛飼い」を多くの人の現実になぞらえます。

 「牛を見失った牛飼いは、もはや牛飼いとも言えない」という、一種のアイデンティティ・クライシス(自己喪失の危機)を描いていますが、それもまた、これまでの問いと重なり合うでしょう。

 ここまでの話を整理するならば、まず第一に、脳が作り出した観念が、“すべてがつながっている”という現実を見えなくしていることを、私たちは知らなくてはなりません。  しかしその一方で、仮にそうした虚像から離れ、ありのままの世界が目の前に立ち現れたとしても、「その世界が何によって生み出されたのか?」という問いがなくなるわけではないということです。

 前回の連載でも触れましたが、それはもはや悩みというより、永遠に不可知なものに対する畏敬の念にほかならないように思えます。本当の信仰心、宗教心とは、そうしたものを指すのかもしれません。

 いやはやなんとも、この世界は何重にも分厚い層に覆われ、それはまるで玉ねぎの皮を延々にむくがごとくの感もありますが、その皮をむいていくプロセスに飽きた瞬間、私たちの身体が感じているはずの世界(=ありのままに認識される世界)もまた、もしかしたら“大きな玉ねぎの皮”ではないのか? そんな気づきに襲われるかもしれないのです。

 どうあがいても永遠にたどり着けないものがあるという直観は、かのニーチェを錯乱させたようなある種の狂気を生みだしつつ(彼はそれを「永劫回帰」と呼んだのかもしれません)、同時に本当の意味での生きる力を呼び起こしてくれる源泉にもなり得ると思うのです。

図3・“認識できる世界”の外にあるもの

自分と他者を分ける“免疫”

 さて、俗に「ヒトの身体は小宇宙である」と言われていますが、身体が宇宙であるならば、「直観は外からもたらされる」ということの意味も、より明瞭になってこないでしょうか?

 その宿るものを生命と重ね合わせた場合、身体(心と体)は“生命の宿る器”ということになります。これが真実だとすれば、「身体を大事にする」ということの意味もより重みを増してくるはずだからです。

 生命が宿っているはずの身体が劣化してしまっていては、言うまでもなく、生命力は発揮できません。直観が受け止められないのは、脳の認識の問題もありますが、同時に身体の劣化も深く関わっていると言えます。

 では、身体の劣化とは具体的にどんな状態を指すのか?

 詳しくは次回の連載に譲りたいと思いますが、藤田氏との対話の次のくだりに一つのヒントが隠されているのではないかと思います。

(引用はじめ)

長沼 ……だから体のなかも含めて、常在菌だったり、常在ウイルスだったり、いっぱいいるんですよ。  しかも、細胞のなかにもミトコンドリアみたいな元部外者がいて、かなり大事な仕事をしている。まあ、あまりにも居心地がいいから細胞に同化しちゃったという話ですよね。

一照 常在菌を全部殺しちゃったら僕らの生命もマズいというくらい、助けられているわけですよね。害をなすこともあるけど。

長沼 基本は害はなさないですよね、お互い生きるために。

一照 助け合っているわけ?

長沼 そう言っていいと思いますが、いろんな状況でバランスが狂うと暴れたりする。おもしろいですよね。  そういう病原性の菌やウイルスも含めて共生していながら、「私」という統一体はあるわけですから。自我の幻想を切り離した意味でも、このあなたではない「私」というものを成り立たせている何かしらの統合があるんですよ。でも、その「私」は完全な個体じゃないという。

 このへんにもいっぱい菌がいるじゃないですか。だけど、菌には体の内と外という区別がないから、自己という存在も含めて世界そのものが菌やウイルスの海のなかにいる。  そういう現実を受け入れるしかないわけですが、脳は混乱しますよね、境界は曖昧ですから、何をもって「私」と言うんだろうと。

(引用おわり)

 このような私という個を個として成り立たせているものは、一般的には「免疫」と呼ばれています。免疫というと「病気から身を守る仕組み」としてイメージされがちですが、より本質的には、「自己と他者を見分け、自己を守る働き」と呼んでもいいものでしょう。

 脳がいくら混乱しようが、この免疫が役割を全うしてくれていれば、“私を統合している力”は維持されます。逆に言えば、免疫力の低下はこうした統合力の低下につながり、自他との境界を混乱させます。

 この混乱こそが身体の劣化であり、それは様々な心身の不調を起こすだけでなく(わかりやすい例がアレルギーであり、自己免疫疾患です)、「自己を自己として保つ力」も低下させます。

 自己を保てなくなるからこそ、人は元気を失うのです。それでは「超人」どころの話ではないでしょう。

 次回は、こうした広義の免疫にスポットを当て、身体の劣化を賦活させる手立てについて考えていきたいと思います。

★藤田一照氏との「十牛図」をめぐる対話は、12月11日創刊の「ハンカチーフブックス」にて、『僕が飼っていた牛はどこへ行った? ~「十牛図」からたどる「居心地よい生き方」をめぐるダイアローグ』というタイトルで書籍になりました。

★この本を、刊行日翌日の次の記念イベントにて先行販売します。ご興味のある方はぜひご参加ください! 購入方法については、リトル・サンクチュアリHPにてお知らせする予定です。

12/12(土)13時半〜:第20回身体感覚セミナー「いよいよ始動! 葉山生まれの小さな出版舎 『ハンカチーフ・ブックス』が描く心地よい生き方の提案」 →お申込み・詳細はこちら

(第7回 了)

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-- Profile --

著者長沼敬憲(Takanori Naganuma)

1969年、山梨県生まれ。エディター&ライター。 20代の頃より身体や生命のしくみに興味を持ち、様々な経験を積む中で身体感覚としての「ハラ」の重要性に着目。30代で医療・健康・食・生命科学の分野の取材を開始し、様々な書籍の企画・編集を手がける。 著書として、ロングセラーとなった『腸脳力』(BABジャパン)、『この「食べ方」で腸はみるみる元気になる!』(三笠書房)。エディターとしては、『死と闘わない生き方』(土橋重隆・玄侑宗久/ディスカヴァー・トウェンティワン)、『「筋肉」よりも「骨」を使え!』(甲野善紀・松村卓/ディスカヴァー・トウェンティワン)、『ゆるめる力 骨ストレッチ』(松村卓/文藝春秋)、『栗本慎一郎の全世界史』(技術評論社)、『腸を鍛える』(光岡知足/祥伝社)など。2014年1月、読者有志と「ハラでつながる会」を設立。毎月1回、東京都内などで「身体感覚セミナー」を開催中。2015年12月、「ハンカチーフ・ブックス」を創刊した。

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