対談/北川貴英&山上亮 第七回「親子体育」をかんがえる
システマ東京の北川 貴英さん、整体ボディワーカーの山上 亮さんの対談の第七回は、「体育を点取りゲームだと考えると、どうなるか?」について。お金持ちが人格者でも偉い人でもないのはなぜか? 「勝つこと至上主義者」に覚える違和感はなぜか? と、社会のルールと本来の“からだ”がそぐわない理由(わけ)を考えます。
北川貴英×山上亮 「親子体育」をかんがえる
第七回 「からだのチャンネルを開く」
語り●北川貴英、山上亮
構成●阿久津若菜
日本はもともと「ふれる」国
コ2編集部(以下、コ2) 前回(第六回「親子でふれあう、からだを感じる」)、「スキンシップの公式(面積×時間=スキンシップ量)」が、人格形成やコミュニケーション能力と関わることについて、話し合いました。定量化できるかどうかはともかく、“手当て”という言葉があるくらい、「人にふれる」ことを大事にしてきた文化が、かつての日本にはありましたよね。
北川 子どもに限らず今の人は、お互いに「ふれない」ですよね。日本人同士は特に、握手しない、ハグしない。 同じ会社の同じフロアで働いていても、ふれたことのない人は、当たり前のようにいますよね。そういう距離感はやはり、日常の親子関係にも反映されるでしょうね。
山上 日本にはもともと、ものすごく子どもを可愛がる文化がありましたよね。
歴史の本を読んでいると、外国人が日本を訪れた時の紀行文に「子どもを可愛がって甘やかしていることに驚いた」といった記述があります。
子どもの数が多かったから、親子間の接触という意味ではそんなに多かったわけではないかもしれませんが、でも大人たちが子どもを可愛がって扱っていたことが普通だったということでしょうし、子ども同士で思いきりふれあって遊ぶ経験は、今よりきっと多かったと思います。
北川 遊びひとつとっても、接触の多いものが多かったですから。
山上 相撲をとる、おしくらまんじゅうをする、抱っこかおんぶをしながら子守りをして、そのまま遊ぶとか。
北川 ルンバがないから、赤ちゃんを背負って箒で掃除するしかなかった、とか(笑)。だからといって単純に「昔はよかった」といえるかどうかは、わからないですけれども。
山上 「それしかなかったからそうだった」という事情もありますからね。懐古的に「昔はよかった」と言っても、あまり生産性のある話ではありませんが、でもそこにある良かった点というのは、きちんと評価して見ていきたいですね。
学校の体育を「点取りゲーム」と考えてみる
山上 人に「ふれない」ことは日本に限らず、経済が一気に成長した国々が共通に抱える問題だと思います。
文化というのは、長い年月の間にいろいろ試行錯誤しながら徐々に形作られていくものだから、理屈だけではなく、感覚的なことや経験的なこともいっぱい入っているんですよね。そうなるとそこには必ず、“身体性”というものが入ってくる。いろんな儀式を見ていると、どれも人間の身体性を非常にうまく活用しているんですよね。
というより、人間を元気にしていくこととか、共同体を維持していくこととか、そういうことをやっていくためには、身体性からしか入り口はないと言ってもいいのかもしれません。
でも一気に経済成長すると、頭の中でつくった理念だけが先行して、からだが追いつかなくなってしまいます。ふれる文化が一気に欠如して、いろいろな身体文化が置いてけぼりになって……頭とからだが食い違っていく、みたいな。
北川 そうですよね。ですから頭のほうを徹底して使っていくと、逆に身体性に回帰するような動きも出てきます。
たとえば哲学者の入不二基義さん[編注:1958〜 青山学院大学教育人間科学部心理学科教授。『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(講談社)などの著作がある]は、51歳からレスリングを始めて、最近ではブラジリアン柔術を学んだりしています。作家の村上春樹さんもランニングを続けてますしね。
頭を徹底して使う人は、なんらかの形でからだとのバランスを取り戻す儀式なり、試みなりを、知らないうちにやりたくなるんじゃないでしょうか。私の知っている範囲でもそういう人は何人かいます。
でもこういったことは「趣味」の範囲で語られてしまって、なかなか掘り下げられることはありません。でも僕は、こういうこともより発展させていくのも本来の体育の目的だと思うのです。
ですから、学校の体育はこれとは全く別種のものとして接する必要があるんじゃないか? と思います。つまり「点取りゲーム」としてとらえてしまうと。体力やその人の能力といった根本的なところには全く関係ないものとして、割り切ってしまうのです。
山上 たしかに頭を使うには体力が要るというのはよく分かります。
北川さんも文章を書く人だから分かると思うんですけど、文章を書くのってすごい体力を使いますよね。村上春樹さんがランニングを欠かさないというのもすごく「なるほど、そうだろうな」という感じがするんです。
ただそこらへんの発想というのは、まだまだ一般的とまでは言えないですよね。社会的には、頭は頭、からだはからだで、未だに切り離されている。 それはやっぱり身体性というものがまだきちんと捉え切れていなくて、その価値が一段下のところに置かれているからだと思います。まあ意識が意識の価値を一段高いところに置いておきたいというのは仕方がないことですけどね。
でも今の体育が「点取りゲーム」だというのは、その通りですよね(体育に限らないですけど)。教育の評価が「数値化して順位付けする」という以外ほとんどない。その方法がすごい便利だから、教育者もそこで思考停止してしまって、そのまま何十年と来てしまっている。 でもそれは人間のある一面の計測であって、あくまでゲームの延長です。「学校の点数なんかで、人間の評価は決まらない」とみんな、どこかで分かっているくせに、そこから先は思考停止して結局、点数に振り回されている。
そのゲームのプレイヤーである子どもたちはもちろん、まわりの大人も「これはゲームなんだ」ってことをきちんと認識して、というか自覚して、その価値に過剰に重きを置きすぎなければいいんですけど……どうしてもそのゲーム内での順位付けに染まっていってしまいますよね。それはどうしていったらいいと思いますか?
北川 それにはさらに、「勝者=人格者」という、思い込みを外すのが良いんじゃないかと思います。根本的なギフトがあるから優れていて、その結果勝利を収めているという、何か初めから神から恵まれた、みたいなイメージもまた錯覚じゃないかと思います。
単にその時たまたま、そのゲームで一番点をとったというだけ。悪人だっていい点を取れるし、善人が悪い点をとることもあるでしょう。「金持ちになること」もそうですよね。「貨幣経済の中でお金をたくさん集める」というゲームで高得点を達成した人が“お金持ち”と呼ばれているのだと思います。
つまりゲームとして割り切ることで、計測結果の価値を矮小化してしまうんです。だからといって、ルールを無視していいわけではありません。
なぜなら無人島で一人で暮らさない限り、僕たちは必ずルールの中に置かれますから。その中で生きていくためには、ルールに最適化する必要があります。それはそれで考えなくてはいけないのですけれども、親子体育では、スキルを行使する「からだそのもの」にアプローチしていきたいな、と。
社会のゲームは一種類ではない
コ2 いわゆる「勝ち組」と呼ばれる人たちには、「社会をゲームだと割り切って勝負するなら、確実に勝てる算段を考えるのは当然」という主張がありますよね。これって、正しいといえば正しい。きわめてシンプルで筋の通った考え方だと思います。
でも「人生において、ゲームの勝ち負けとはまた違う“幸せ”のあり方がある」ことを堂々と言えない、もしくは言わずにきたことが、社会全体の軋(きし)みにつながっているのでは、とも思います。
前回(第六回「親子でふれあう、からだを感じる」)で山上さんが例にあげてくれた「抱っこの仕方がわからない親」というのは、衝撃的でした。社会の勝ち組になれたとしても、人としての基本的な部分に軋みが生じるなら、人生としてはどうなの? という疑問が常にわくのは、事実ですから。
山上 それは象徴的な話かもしれませんね、「抱っこの仕方がわからない」というのは。私にとっても「抱っこなんてやっているうちに上手くなってくる」という思い込みを覆されたのは、衝撃的でした。どんなに妙な抱っこをしていても、そこに違和感を感じないのであれば、変わっていかないですよね。学習自体が始まらない。
以前、あるところで重い荷物を持とうとしている人がいて、見ていたら「前へならえ」をするように、腕をまっすぐ前に伸ばして荷物を持とうとするんで、ビックリしてあわてて「そんな持ち方したらからだを壊すよ」と止めたことがあります。
自分の中ではたとえ整体とかやっていなかったとしても、絶対あり得ない持ち方だったので、ホントにビックリしました。それは経験がないというよりも、感覚が分からなくなっているんでしょうね。「あ、これは腰にくるわ」という感覚がない。
北川 僕が「人生はゲーム」だという考え方を見直すべきだと思っているのは、そういう根本的な身体観を直視したいからなんです。「体力」と称して、ボール投げのスキルが計測されることに違和感を感じない状況が、なんとかならないものかと。
山上 ゲームの結果が人生と直結しているから、勝つことにがんじがらめになってしまうのですよね。“学歴が上がるほど、生涯賃金もアップする”という調査もあったりします。
ゲームだけで全部決まってしまう世の中に対して、何か違う方向を模索しないといけない気がするんです。
北川 いわゆるゲームのいいところは、リトライやリセットができることですよね。でも現実の(社会の)ゲームでは、一回こけたらおしまい。リトライへの障壁が異常に高く設定されていることが、特に日本の閉塞感を生んでしまっている気がします。この社会をどうにかするのはたいへんなので、僕は複数のゲームを知るのが良いのではないかと。
山上 世の中には、もっとたくさんの種類のゲームがある、ということですか?
北川 一つの共同体にしか属していないと、そこのルールの中で生きるしかなくなってしまう。その人の人生=その人の共同体のルールみたいなことになっていってしまうんですね。
それならいくつかの共同体に同時に所属するのが、僕はいいと思っていて。学校なら学校、というフィールドで成り立つゲームがありますと。違う共同体では全然違うゲームをすればよくて、いろんな空間のいろんな世代の人と、関わっていけばいい。
子どもならだいたい「学校」と「家庭」という二つのコミュニティの中で生活することになります。それとは別にもう一つのコミュニティに属するのが良いのではないかと。このコミュニティは、前の二つのコミュニティと全く被らないのが理想ですね。
山上 それはすごく大事なことですよね。
北川 一つのゲームに特化してしまうと、環境が急変して新たなルールを強いられた時に対応できなくなる、という難点もある気がします。だから普段から複数のルールを行ったり来たりするようにしたらよいのではないかと。
「勝つこと至上主義」への違和感
北川 ただし「勝つこと至上主義」の人への妙な違和感ってありますよね。彼ら/彼女らの言っていることは、たしかに正しいし、分かる。
そういう人たちのことを批判するのは簡単です。「世の中にはお金より大事なことがあるだろう」と。
でもこの批判ってどこか感情的。勝利至上主義者たちの、精緻に組み立てられた論理の前には、どうしても見劣りしてしまうのです。でもだったら、なぜ心情的に反発したくなるのだろう? と考えてみたことがあるんです。
この連載の第一回で、「運動神経がいい子とは“からだの中に、いろいろな動きのパーツを持っている子のこと”」という話をしましたが[編注:たとえば逆立ちは「手でからだを支える」「上下が逆転する」「地面との垂直を保つ」といった、複数の動きのパーツの組み合わせ。そのパーツのどれかでも持っていれば、逆立ちという動きを構築しやすくなるという話]。
からだが動きのパーツをできるだけたくさん持つことが、運動神経の豊かさにつながります。この「豊かさ」というのが一つの鍵じゃないかと思うんですよね。運動をよくするのではなく、豊かにするという。
そして「社会でゲームに勝つ」とは、思考のパーツ=知識や考えるロジックをたくさん持つことだと思います。その組み合わせ方次第で、ゲームに勝てる(負ける)ことを学んでいく。
からだでも頭でも、優先させるのは「パーツ」をできるだけ膨大に増やすこと。
だけど「勝つこと至上主義」への違和感とは、「ゲームに勝つためのパーツしか持っていない」という感じがするところです。
本来はもっているべき膨大なパーツが、なぜか見当たらない。だから、言っていることもやっていることも正しくはあるけれど、勝つことに必要な機能以外ははすべて切り捨てた戦闘マシンみたいに見えてくる。
そこには、本来あるべき「負ける」「勝負から降りる」といった選択肢が、はなから失われているのですよね。こういう人たちに世の中を任せると、敗者が殲滅(せんめつ)するまで物事を進めてしまいかねない。これが高じると、社会の圧倒的大多数が、敗者として潰される側に回るわけです。
そういう危機感が、彼らを見たときの違和感につながっているんじゃないかと思うんです。
山上 結局、「ゲームで勝つことは重要だけど、ゲームがすべてじゃない」ことをわかっているかどうかですよね。でもどちらかというと「ゲームに勝つことがすべて」と割り切る方が、社会的には成功する。
北川 そうですね。勝者には迷いがないですから。そして成功した人を人格者だと考える(そう思いたい)心理には、一種の合理化があるのではないかと。「あの人は自分より素晴らしい人だから、自分よりいい結果が出せるのだ」と考えることで、やっと勝敗の不公平感を乗り越えて、納得できるという(笑)。
山上 勝つことがすべてのゲームをする限りにおいては、まったく切り捨てていいところですよね。人格者というオプションは。でも今の世の中は「マネーゲーム」というゲームだけで成り立っていて、家族の中ですら、そのルールが働きすぎているのかもしれない。
北川 たしかに。
山上 本当は家族の中では、マネーゲームとは違うルールが働いていて。社会で負けて帰ってきても、家族に「そんなこと別にいいんだよ」と受け入れられ、リトライできる場が息づいている。これが家族とか親密な共同体の、本来の役目ですよ。
それをルールと呼ぶならきっと、「愛のルール」なのでしょう。そこではメンバーが報酬や見返りのために何かをしたり、競い合ったりするのではなくて、お互いがお互いのために何かをする。力のある者は子どもや病人のように動けない者のために動き、弱い者はその中で安心して守られそして甘えられる。 そこではマネーゲームの等価交換の原理ではなく、「他人に対する奉仕」という、愛の原理が働いている。でも現代はマネーゲームが強くなりすぎていて、家庭の中にまでその原理が入り込んでしまっているような気がするんですよね。
前にテレビか何かで、家事も報酬制にして「料理はいくら、掃除はいくら」と取り決めをしている夫婦を見たことがあるんですが、そこまでやるか! と思いました。完全にマネーゲームの原理で成り立っているんですね。
合理的きわまりないと言えば、そうなんですけれども……でもどっちかが倒れた時とか、どうするんですかね? 家庭内で借金状態に陥るんでしょうか(笑)。
そういう時に「治るまではちょっと中止にしようか」と言えるまともな人なら、まったく心配ないんですけど、そんな時にも貸し付けた金額を細かくメモしていたりしたら怖ろしいですね。それは現実とゲームの境界が分からなくなってしまっているということですよ。
マネーゲームのルールが家庭内に入り込みすぎてしまうと、やっぱり家庭という場が本来持っているべき働きのようなものが、上手く機能しなくなってくる気がします。
そういうことがたとえば「抱っこの仕方が分からない」というからだに表われてきているような気がするんです。
北川 その家は整体でいう五種なんじゃないですかね。あるいは上下(笑)。ただそれだとセーフティネットとしての安心感が失われるという、ネガな面が予想されます。ただ受け止めてあげるという。
ゲームにはそのルールが成立するフィールドが必要です。そしてそのルールを遵守できる人しか、そのフィールドに立つことは許されません。もしそのルールになじめない人が紛れ込んでしまったら、レフェリーやそれに相当する人や周囲のプレイヤーから排除しようとする働きが生まれます。これが「居場所のなさ」の正体なのではないでしょうか。
家庭というのは、その構成員であるというだけで存在することが許される、きわめてルールのゆるいフィールドだと思うのです。でももしかしたら、そういう価値が軽んじられているのかもしれません。その結果「抱っこできないからだ」が生まれたのではと。
山上 チャンネルとしてのからだという感じですよね。
北川 チャンネルですね。人のからだには本来、いろいろなチャンネルがあるのに、それを割と早い段階で、閉じてしまっているんです。
山上 第一回でも、人はもともとサルが10匹いたら10匹、全部の顔を識別できるくらいの高い能力をもっているという話をしましたよね。やがて、自分が育っている文化の中で使わないチャンネルは、不要のものとして閉じていくわけだけど、その時に、今までとは少しだけ違う世界を見せる。すると閉じていたチャンネルがしっかり働き始めます。
北川 そうですね。違う文化を体験して見方を変えると、今まで閉じていたチャンネルがひらく。いろいろな刺激与えられると、チャンネルが増えますから。だから「親子体育」で目指すところがあるとしたら、“からだのチャンネルをできるだけ開くきっかけをつくる”ことなのかもしれません。
(第七回目 了)
--Profile--
北川貴英(Takahide Kitagawa)写真左
08年、モスクワにて創始者ミカエル・リャブコより日本人2人目の公式システマインストラクターとして認可。システマ東京クラスや各地のカルチャーセンターなどを中心に年間400コマ以上を担当している。クラスには幼児から高齢者まで幅広く参加。防衛大学課外授業、公立小学校など公的機関での指導実績も有るほか、テレビや雑誌などを通じて広くシステマを紹介している。
著書
「システマ入門(BABジャパン)」
「最強の呼吸法」「最強のリラックス」(どちらもマガジンハウス)
「逆境に強い心のつくり方ーシステマ超入門ー(PHP文庫)」
「人はなぜ突然怒りだすのか?(イースト新書)」
「システマ・ストライク」「システマ・フットワーク」(どちらも日貿出版社)
DVD
「システマ入門Vol.1,2(BABジャパン)」
「システマブリージング超入門(BABジャパン)」
web site 「システマ東京公式サイト」
山上亮(Ryo Yamakami)写真右
整体ボディワーカー。野口整体とシュタイナー教育の観点から、人が元気に暮らしていける「身体技法」と「生活様式」を研究。整体個人指導、子育て講座、精神障碍者のボディワークなど、はばひろく活躍中。月刊「クーヨン」にて整体エッセイを好評連載中。
著書
「子どものこころに触れる整体的子育て(クレヨンハウス)」 「整体的子育て2 わが子にできる手当て編(クレヨンハウス)」 「子どものしぐさはメッセージ(クレヨンハウス)」 「じぶんの学びの見つけ方(共著、フィルムアート社)」
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