対談/北川貴英&山上亮 第八回「親子体育」をかんがえる(最終回)
システマ東京の北川 貴英さん、整体ボディワーカーの山上 亮さんの対談もいよいよ最終回。第八回では、「体育=からだを育てる」ことを再び、考えます。からだのチャンネルが閉じていても、からだの声を聞きすぎていても、からだは育っていくことができません。では親子体育が“本当にできること”って、何? お二人のいつもの活動から、親子体育の本質を語ってもらいました。
北川貴英×山上亮 「親子体育」をかんがえる
第八回 体験してしくじって、親子で育つ
語り●北川貴英、山上亮
構成●阿久津若菜
理屈ではなく体験する!
コ2編集部(以下、コ2) 前回(第七回)のお話の中で「親子体育で目指すところがあるとしたら、“からだのチャンネルをできるだけ開くきっかけをつくる”こと」というお話がありましたよね。この、からだのチャンネルを開くとは、具体的にどういうことなのでしょうか?
山上 チャンネルを開く、もしくは増やすのに、子どもにいろんな体験をさせることは、とても大きな要素ですよね。
北川 そうですね。幅広く世界を体験することですから。
山上 体験というのはからだ全体、五感すべてを使って感じていくことが大事だと思います。DVDで、きれいな海外の海を眺めるくらいなら、「チャリで海まで行こうぜ!」とかね。そうやって眺めた海の風景はまったく違うものですよ。たとえあまりきれいでない海でもね。
北川 そうやって実際の体験を積み重ねていくことで、子ども自身の“からだに対する自信”が、培われていくのではないかと。
山上 それはシステマの親子クラスでも実践されているんですか?
北川 そうですね。よく「褒(ほ)めて自信をつけさせる」ということが言われますけど、“褒める”ことは、実はとても難しい技術です。ちょっと加減を間違えるだけで、子どもを増長させてしまったり、モチベーションを奪ったりしてしまうことになりかねませんから。 それよりも、“できなかったことができるようになる体験”を積ませるほうが、確実なんじゃないかと思うんですよね。実際のシステマクラスでも、別に褒めて育てるなんてことやらないですし。
親子クラスでの例としては、半年くらい前、僕が足を骨折した時におもしろいことがありました。折れたのは、すねの細い方の骨“腓骨(ひこつ)”だったので、まあ歩けはするのですけど、走れるわけではありません。 でも子どもたちは、そんな事情はおかまいなしに走り回るわけですよ。それをこっちは追いかけて捕まえないといけない。
それだと困るので、子どもたちの足を縛ってみたのです。システマに、手足を縛られた状態でからだを動かすワークがあるのですが、それを思い出して。「みんな怖がるんじゃないかな」と、少し心配しながら縛ってみたのですが、もう喜んじゃって、われもわれもと縛ってもらいたがって(笑)。
しばらくすると、縛られたまま足先だけを器用にちょこちょこ動かして走る子が出てきて、結局、折れた足で追いかけ回す羽目になったのですけれども。 まあそんな感じで、「未知に直面して乗り越えた」という成功体験を積み重ねていくんですよね。
山上 いつもと違う環境におかれることで、動きの新しいパーツを子ども自身が見つけていって楽しんじゃったんですね。
北川 そうそう。そもそも親子クラスでは、ヒモをよく使っていたんですよね。 現代の生活ではどうしても足の動きが育ちにくくなってしまいます。なので足の指で“蝶々結び”や“もやい結び”をしたり、綱引きをしたりする遊びを取り入れてたんです。
そのヒモを使って、縛り上げてみたと。するとからだをうにゅうにゅ動かして縄抜けしちゃう子もいて、「こんなに縛っても、子どもたちは動けるものなんだ!」って感心しちゃいました。
山上 “縛られて楽しい”っていう、新しい扉が開いちゃったんですね(笑)。
北川 そうですね。子どもたちはこのワークから成功体験や自信だけではなく、「縛られながらの動き」という、新しい動きのパーツを手に入れたことになります。 それはほとんどの子が持ってないパーツですから、これからの人生がちょっとだけ有利になったと言えるでしょうか。それがなんの役に立つのかはわかりませんけどね(笑)。
山上 「何かを奪う」というのは、いい教育ですよね。とりあえず手足の自由を奪ってみるとか、目隠しして視覚を奪うとか。その中でなんとかするのは、自分の身体能力を最大限に使って、どうすれば何とかなるかを、からだに覚えさせることだから。
北川 ほんとにそうです。枷(かせ)を作ったほうが、動きは開拓されます。自由って実は不自由なこと。自由にしていい状況では、新しい動きって出てこないんですよね。
なぜなら自分の馴染んだパターンで事足りてしまうから。逆に得意なパターン、馴染んだパターンを封じてしまうことで、新しい動きが出てくる。つまりより自由になれるんです。
普段、私たちは視覚に頼りきりですので、たまに目をつぶったりして視覚を遮断するのもとても良いトレーニングになります。ただ、これはなかなか親子クラスではできません。子どもたち、すぐにうす目開けたり、目隠しをずらしちゃったりするから(笑)。
山上 人間ってどうしても一番便利な感覚に頼っちゃいますよね。その一番頼りにしているものをあえて奪うことで、違う感覚、違うチャンネルを使わざるを得なくなる。そういう意味でもチャンネルをいっぱい持っておくことは、一つのチャンネルが使えなくなったときに、パッと違うチャンネルに切り替えて対処できることにつながりますね。
「イヤだ」と言えるからだをつくる
コ2 たとえチャンネルが切り替わっても「私は私である」という自己同一性を保証してくれるものって何なのでしょう? やっぱり「からだ」が自我を生み出すのでしょうか。
山上 たしかに身体性ではありますけれど……ただし、ひとつの環境にだけ固執した、からだではないと思います。あったかいところにいるからだ、冷たいところにいるからだ、みんなと一緒にいるからだ、一人でいるからだ……実はからだはどんどん変化しているけれど、あくまで場所(環境)に応じて変化しているに過ぎないわけだから。
北川 「自分が思っている“私”って何なんだ?」ってことですよね。そもそも自分は連続しているのかと。 別に自己統一性とか、こだわらなくていいんじゃないかと思うんですよね。どれだけぶち壊しても、連綿と続いてくるという形で「自己」というのは立ち現れるのではないかと。
個人的には、成長とは別人になるということだと思っています。だから今の自分を捨てる覚悟がないと、次の自分になれない。半端なセルフイメージはその妨げとなってしまいます。 ただし、うちの子が生まれた時お世話になっていた、身体教育研究所のある先生から教わったことがあります。
それはまず「首を左右に振る動きを、赤ちゃんに学ばせる」ということ。顔の前に指を出して左右に動かすと、それを目で追って首を左右に動かすから、その動きをそうやって身につけさせるといい、というのです。 これは何なのかというと「イヤだ」という意思表示をできるようにするためなんです。
山上 イヤなことを「イヤだ」と言える子どもですね。最近そういう「素直さ」っていうことが一番大事なんじゃないかとつくづく思ってきましたよ。 世界に「NO」と言うのは、独立の最初の一歩ですからね。 それが私と世界、あるいは私と親との決別で、自分というアイデンティティーの始まりです。自分というものがある以上、「NO」のない人間なんていないんですよ。
世界に「NO」と言わなかったら、たちまち世界に侵蝕されて死んでしまうわけだから。 それを子どものときに抑えつけられて育っていってしまうと、やがて自分というものを上手く立ち上げられなくなってしまう。言われたとおりに動いているうちに、自分が何を感じ、何が好きで、何がイヤなのか、まったく分からなくなってしまいます。 それは人生にとってけっこう大きな問題だと思います。
だからイヤなことを「イヤだ」と言えるからだを育てていくことは大事。とか言いながら実際自分が子どもに「イヤだ」と言われると、やっぱりカチンときて怒っているんですけどね(笑)。
北川 私もまずは拒否を教えるというのを聞いて、なるほど、と、腑に落ちました。確かに「自分」というイメージは「あれはイヤだ」「これもイヤだ」という嫌悪感によって形成されているな、と。今のところ、うちの子は良くも悪くも見事にその通りに育ってますね。イヤなことは断固としてやろうとしない(笑)。
からだの声さえ聞ければいいの?
コ2 からだの感覚をごまかすことを覚えてしまうと、「自分が自分である」ことすら、定かでなくなる危険性があるのですね。ということは、「からだに正直でいること」は「自分らしくいること」とイコールと考えてよいのでしょうか。
北川 うーん、どうでしょう。それは言い過ぎじゃないですかね。そもそもからだに正直、というのはどういうことなんでしょう。
からだに正直なつもりで、一定のパターンを繰り返しているだけの人もいれば、からだの欲求にさからっているようで元気で生き生きすることもあるでしょう。
たとえば子どもって、おしっこを限界まで我慢して遊んだりしてます。足とかもじもじしちゃって、すぐにでもトイレに駆け込みたいのに遊び続けている。 からだの欲求を優先するならさっさとトイレに行ったほうが良いはずですよね。でもその子がよりはつらつとするのはおしっこを我慢して遊ぶほうだと思うのです。
その場合、どっちが本当のからだの声なのでしょうね?
山上 ひとつじゃないってことですよね。からだの声と言ったときに。その時その時の状況で、やりたいことは刻々と変わるし、相手との関係性によってもとるべき選択肢って違うと思うのですが。「からだの声を聞く」と言った時点で、絶対的な正解を求めすぎている気がしています。
それって、ある種の思い込みですよね。いわゆる教科の体育の方法論に近くなっていく気がします。
北川 そうですよね。からだの声を聞けばすべてが解決するってわけではないと思うんですよ。山上さんのおっしゃる通り、絶対的な正解が得られるわけでもない。むしろ悩みが深くなるくらいのほうが良いんじゃないでしょうか。 すると、思う通りにならないからだと一生付き合うということ自体が枷(かせ)となって、より自由になっていくこともあるんじゃないかと。
親が子にできること
北川 私の場合は、自らのからだを自分なりに整えていくことが、親子システマのクラスで重要な位置を占めていると思ってます。子どもも、一緒に練習してくれている親御さん達も、当然ですけど他人ですから、こちらの思う通りのからだになるわけがないし、そうするべきでもない。
だからできることはせめて、当事者比で、からだを少しでも良い状態にしていくことくらい。それもただ整っているだけ、動きが良いだけではダメなんです。面白くないといけない。 そうしないと子どもはついてこないし、パーツを集めるという目的も果たすことができないですから。
先日、プロレスラーの鈴木秀樹さん(twitter:https://twitter.com/hidekisuzuki55)と、格闘技の試合のあり方について話していたら、鈴木さんが冗談半分で「面白いかどうか」を判定基準に入れたら良いんじゃないかと言うんですよ。 あまりにつまらない試合だったら、セコンドから「しょっぱい試合をしてるんじゃないよ」という意味で、塩が投入される。タオル投入ならぬ、塩の投入で負けちゃうんです(笑)。
それを聞いて「なるほど」と思ったんですね。いくら強くても面白くなければ試合に招ばれないわけです。でもたとえ負け続けても、面白ければ試合に呼ばれる。その世界で生き残るうえでどっちが大事かっていったら、試合に呼ばれる方じゃないですか。だから真剣勝負の世界でも「面白さ」というのは、強さ以上に価値を持ち得るのだと。
ミカエルもセミナーの最中に「楽しいか?」って聞いてきますし、優れたインストラクターのデモも、見ていると面白いんですよね。つい笑ってしまう何かがある。
だから強さや高い身体能力も大事だけど、愉快なからだ、愉快な状態で親子クラスの人たちと接することができればなあ、と思ってやってます。こうした愉快なからだというのは、からだを通じて世代を超えることができるんじゃないかと。
山上 勝負事には単なる勝ち負けだけでなく、面白いかどうかとか、美しいかどうかとか、そういう判断基準があることを、本当に忘れてはいけないですね。
ともすれば勝ち負けだけで勝負が語られてしまうかもしれませんが、それ以外の軸もきちんと尊重されていかないと、勝負全体がそのうちチープで単純なものになっていってしまいます。文化がなくなっていく。
「要は勝ちゃいいんだろ」的な世界。ある営みを一つの物差しだけで語ることが、いかにその営みを矮小化させてゆくかってことですよ。
でもそういう分かりやすい結果だけでない、ちょっと違った楽しみ方とかモノの見方って、人から人へという形でしか、伝わっていかないのかもしれませんね。そういうのって、かなり無意識のうちに人から人へ、親から子へと伝わってゆくような気がします。いつのまにか影響を受けていたというような形で自分自身の中に染み込んでくる。
だからこそ大人は、チープなところに妥協していっちゃダメですよね。それはそっくりそのまま、子どものからだに入っていきますよ。一つの分かりやすい物差しだけで物事を判断していれば、「ああ、こういうもんか」と潜在意識に深く入る。そういう身体性の遺伝というか伝承というのは、もっともっと考えなくちゃいけないと思います。
あらためて「親子体育とは?」
コ2 では最後になるのですが、「親子体育とは?」について、あらためてお聞かせていただけないでしょうか。親が子にできる体育には、どんなことがありますか?
北川 これまで話したことのほかに何か挙げるとしたら、「待つ」ということですかね。6年ほど親子クラスをやってきて思うのが、子どもが何かできるようになるには、そのタイミングってあるんですよね。急(せ)かさないで任せておくと、ある時ふっとできるようになる。コップに水を一滴ずつ垂らしていくと、ある時ぽろっとこぼれるような感じですね。
だからできない時期、やろうとしない時期にも、何かが貯め込まれているわけです。それがある時、不意に表に出てくる。 でも今の社会では、そういう“待つ時間”って持ちにくいですよね。学校や家庭ではどうしたって急かされるし、時間に追われたりするわけですから。むしろそうやって時間を守ることで集団行動に慣れて社会性が養われる部分もありますから、それを一概に否定するわけではありません。
でも親子でシステマをやっている間くらいは、急かさないでしかるべきタイミングを待つということをやるようにしても良いんじゃないかと思うんです。
山上 「そのとき一番育つこと」というものがありますよね。あるいは「そのときにしか育たないこと」。いろいろな感覚や体験を通じて、世界とつながるチャンネルをできるだけ多く開いておけば、それは後々、育ててゆくことができます。子どもの頃に身につけなかったチャンネルを大人になってから開こうとしたら、子どものときの十倍以上の努力が必要ですよ。
北川 そうですね。失敗の経験もまたチャンネルを増やしてくれます。私に関して言えば、新しいことを習ってうまくいかない時にはわざと失敗してみたりします。このやり方もダメ、あのやり方もダメ……と色々と失敗例を洗い出すことで、目指すべき方向性が絞り込まれていくんです。こうしたことは、失敗することの良さですね。
山上 失敗させることでチャンネルが増える。
北川 そうですね。失敗力。システマでは回復を大事にしますが、それには失敗力を高める意味もあるんじゃないかと思ってます。回復できるなら、失敗も怖くなくなりますから。
山上 親が子にできる体育か。整体的なところからいうと、やっぱり手当てをしていって欲しい。親子でも夫婦でも。家族みんなで。
からだに手を当てて、足湯して、温湿布して……要はからだそのものにこう、気をかける、からだそのものとつきあうこと。それもかなり親密にね。そういう文化というか“振る舞い”が家庭の中にあると、子どもは自然と自分のからだに気をかけるってことを、身につけていきますから。
そうするとやっぱりからだの要求というのも敏感に感じられるようになるんですよね。たとえばある子なんか、いつもは梅干しなんか食べたこともないのに、「急に梅干し食べたい」と言い出して、わーっと食べたかと思うと、その日の夜に熱だして倒れて、「ああ、風邪だったのね」と。
その子は要求が急にあふれ出すのを、ちゃんと感じてる。もちろん、風邪が治ったら梅干しなんか見向きもしないんだけど。 自分のからだの異変にぱっと気づければね。それはもちろんケガや病気の予防にもなるし、あるいは危険を感じて逃げるみたいなことにも、直接的につながる。
北川 子どもや女性の護身術としても、「危険なところには近づかない」というのが第一ですからね。
山上 そうそう。そういうことが一番大事。
講座やったり、いろんな人と話したりしていて思いますけど、手当てを家で実践している家の子どもって、からだの感覚がやっぱり育っています。からだを感じるということを常日頃からやっているわけですから、まあ当然かも知れませんけど。
うちの子も「冷えた」とかいって、ときどき自分で足の三・四指間っていう冷えの急所を押さえたりしてますよ。冷えていることに自分で気がつくような、自分のからだのケアは自分で感覚的にできる。 まあそういうのが自然にできればいいなあと。そうすれば後は自分で何とかやっていけるでしょ。シンプルな言い方かもしれませんが、本当にそう思いますね。
(第八回目 了)
--Profile--
北川貴英(Takahide Kitagawa)写真左
08年、モスクワにて創始者ミカエル・リャブコより日本人2人目の公式システマインストラクターとして認可。システマ東京クラスや各地のカルチャーセンターなどを中心に年間400コマ以上を担当している。クラスには幼児から高齢者まで幅広く参加。防衛大学課外授業、公立小学校など公的機関での指導実績も有るほか、テレビや雑誌などを通じて広くシステマを紹介している。
著書
「システマ入門(BABジャパン)」
「最強の呼吸法」「最強のリラックス」(どちらもマガジンハウス)
「逆境に強い心のつくり方ーシステマ超入門ー(PHP文庫)」
「人はなぜ突然怒りだすのか?(イースト新書)」
「システマ・ストライク」「システマ・フットワーク」(どちらも日貿出版社)
DVD
「システマ入門Vol.1,2(BABジャパン)」
「システマブリージング超入門(BABジャパン)」
web site 「システマ東京公式サイト」
山上亮(Ryo Yamakami)写真右
整体ボディワーカー。野口整体とシュタイナー教育の観点から、人が元気に暮らしていける「身体技法」と「生活様式」を研究。整体個人指導、子育て講座、精神障碍者のボディワークなど、はばひろく活躍中。
著書
「子どものこころに触れる整体的子育て(クレヨンハウス)」 「整体的子育て2 わが子にできる手当て編(クレヨンハウス)」 「子どものしぐさはメッセージ(クレヨンハウス)」 「じぶんの学びの見つけ方(共著、フィルムアート社)」