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カラダのコツの見つけ方 対談/甲野善紀&小関勲 第11回(最終回)カラダを通せば

「バランス」に着目し、独自の指導を行っているバランストレーナー・小関勲氏と、古伝の日本の武術を探求しつつ独自の技法を展開している武術研究者・甲野善紀氏。お二人の元には、多くのオリンピック選手やプロスポーツ選手、武道関係者に音楽家までもが、時に“駆け込み寺”として教えを請いに訪ねて来られます。

 そんなお二人にこの連載では、一般的に考えられている身体に関する”常識”を覆す身体運用法や、そうした技の学び方について、お二人に語っていただきました。

 十数年に渡って親交を深めてきた二人の身体研究者が考える、身体のコツの見つけ方とは?

 最終回の今回は、体を通してしか見えてこない世界について。人間にできて、人工知能にできないこととは? 武術研究者とバランストレーナーの考える、生き抜くための術。

カラダのコツの見つけ方

第11回 (最終回) カラダを通せば

甲野善紀、小関勲

構成●平尾 文(フリーランスライター)

「ただやる」ことの難しさ

甲野 武術の研究を生業にして37年間、様々な技や術理に気付くとともに、生きるということそのものへの気付きもたくさんありましたが、人間は本当に「ただやる」ことが難しいのだとつくづく思います。  先ほどお話した「人間鞠」という、しゃがんだ状態から、ただ腰を落としてポンと立つ技(第六回「<大人>との出会い」)は、出来る人が数人しかいません。なぜかというと、先に「立つ」という結果を求めて、「立とう」と努力してしまうからですね。つまり、「立ち上がる」というイメージがどうしても強くて、「今の今、ただやる」ことが出来ないのです。

 そうではなくて、「結果として立ち上がるから、<立とう>と努力をしてはダメですよ」と言っても、どうしても今までの経験にならって、努力してしまうのですよ。それほどまでに、「ただやる」ことは難しいことです。つまり、人間はいかに目的を持つこと、努力することに縛られているかということですよね。

小関 何事にも「なになにのために、こうしよう」と、計画を立てて取り組むことが美徳のように言われている今は、「ただやる」ことは、ますます難しいでしょうね。 私達はつい結果を求めながらやりますが、結果のためにやるのではなく、やることに自体に意味がある。それはただやってみることでしか見いだせません。これはもう改めて体験して知るしかないと思います。

甲野 考えてみれば、道を歩いていて、何の用もなく5メートル後ろに戻ることって、本当に大変なことですよね。家に携帯を忘れたとか、道に物を落としたわけでもなく、ただ戻るなんて出来ませんよ。

 何の用もなく戻ることをどうしてもやってみようと思ったら、「何の用もなく戻ることがどんなに難しいか試してみよう」という目的を持ってやるしかないでしょう(笑)。

 別の例で言えば、電車の中で「今、大声出してごらん」と言われて、やれますか?多くの人は「いや、人前でそれは」とか「バカみたいじゃない」と思ってやらないと思います。

 だけど、「大声を出したら大金をあげる」と言われたら、どうです? 「100万円だったらやろう」と思う人もかなりいるだろうし、本当に困っていれば1万円だって大声をあげるかもしれません。でも、それは大金をもらうという目的があるからです。  よっぽどの目的がないと、とてもじゃないけど、無理という人が多いのではないでしょうか。だから、人間って、自由なようでいて、ものすごい縛りがあるわけです。 そういう見えない縛りの中で生きているから、「ただやる」と言われても、「何のために?」というふうに、自由とは逆の制約を求めてしまうのですよ。  でも、「人間鞠」のように、目的を意識すると、逆に極めてやりにくいものも意外と多いように思います。そういえば、禅問答も、このことと関わりが深いように思います。

コ2編集部(以下コ2) 先ほどお話に出た、「平常是道」のお話ですね(第五回 「努力することはナンセンス?」)。

甲野 そうです。禅は「論理的に矛盾していて、ナンセンスだ」と頭から否定している人もいますし、確かに禅問答は、ただの観念の遊戯になってしまう恐れもありますが、武術の技を考えてみると、この論理的には矛盾している禅問答の教えは、「なるほどな」と納得することも多いです。

これからを生き抜くために

小関 「ただやる」ことが難しいのは、また「やらなさ過ぎ」という問題も出てくるところですね。「ただやる」と言われて、「では、やらなければいいんだ」というわけではありませんから……じゃあ、どうすればいいんだ、って感じですよね(笑)。  そこに、型というものが寄り添ってくるのだと思います。

 前回も型についてお話しましたが、型というのはある種、自分がやりたいことを制約する役目もありますよね。「自分はここまでやってしまうけど、この型があるからここまで」みたいな、ガイド的役割と言いますか、散漫になりがちな意識の置き所を作ってくれるように思います。 ヒモトレの効用もそこだと思っています。例えば、ヒモを輪っか状にして両手首にかけます。ヒモに腕を預けたら、あとはその輪っかが崩れないように動くだけです。  上げ下げするにしても、左右に振るにしても、ヒモの微妙なテンションがガイドになって、余分な力の強弱がつかないんですね。それで、体の動きが本来の自然な軌道に戻っていくんです。

(ヒモトレ講習会の様子。紐に輪っかが崩れないように動いている)

 つまり、自分が無意識でやってしまっていること(癖・偏り)をいい意味で制約してくれるので、「結果的に楽で心地よくて、可動域も変化するんだな」と後から気付くという感じです。だから、ある種、ヒモトレも型みたいなものかもしれません。

コ2 私もヒモトレの紐を巻くことによって生まれる微妙な拘束感が、型として作用している要素なのではないかと思いました。

小関 そうですね。今は「ヒモトレ」というトレーニングとして紹介していますが、そもそも、昔から日本人は日常的に身体を締めることで身体性や精神性を切り替えていたような気がするんです。たすき掛けにしても、帯にしても、脚絆にしても、着物にしても。

甲野 私が考えたこの「虎拉ぎ」というのも、考え方によっては、自分が元々持っている腱や筋肉をある種の、紐のように使っているとも言えますね。

 技は、手指をある特殊な形にして、身体の中の筋肉をキュッと締めることで、高い段差も楽々上がったり降りたりすることができるのですが、このとき、上腕から腰、脚が繋がっている感じがあります。  昔の人は、体のどこかを締めると、体全体が繋がるという感覚が実感としてあったんでしょうね。  実際、ヒモトレの紐で、たすき掛けをして腕立て伏せをすると、たすき掛けをしていない時より、すごく楽に出来ますよね。講習会でいろいろな人に試していますが、「全然、違いますね!」と皆さん、驚いていますよ。 

コ2 そのとき、紐は割とキツく締めているのですか?

甲野 いえ、そんなにキツくはしないですね。

小関 紐の結び目を動かせるくらい、ゆるゆるですね。ヒモトレは、紐そのもので体をギュッと締めて補強するのではなく、紐を巻いたり、纏わせたりすることによって、無意識に緩みすぎている体を締めたり、逆に締めすぎている体を緩めたりするんです。

コ2 体にとっての「ちょうどいいところ」にヒモが誘導してくれる?

小関  そうですね。いいパフォーマンスが発揮できないとか、痛みを伴うといった、生理的な現象は、過緊張によって知ることができると思います。

 じゃあ、反対に力を抜けばいいかというと、抜きすぎることも、よくない。どこかを極端に脱力すると必ずどこかが過緊張を起こす、というふうに、過弛緩による過緊張が引き起こされたりしますから。逆にある部分の過緊張は他のどこかが抜けているとも言えます。  もっとも、「過弛緩」という言葉はないらしいのですが……脱力の問題というのも、もうちょっと認識が広がればいいなとは思っています。

甲野 部分的に力を入れ過ぎたり、抜き過ぎたりして、体の繫がりが途切れてしまっては意味がありませんからね。  例えば、後傾しながらしゃがんでいく「屏風座り」という技をすると、前から押されてもビクともせず、そのとき、相手の首の後ろに手を引っ掛けていると、押してくる相手に強力に対抗でき、相手を引きつけて崩せるほど、体の強度が上がります。  これは、いわゆるテンセグリティ構造のようなもので、一部に負荷をかけても、その周りを含めた全体が負荷を引き受けるので、足で踏ん張って構えるよりも、遙かに体が丈夫になるのです。逆に周りをうんと丈夫にしちゃうと、そこが弱くなってしまうのです。

 同じように弓や釣り竿は、手元の握りが太くて先端にいくほど細くなるから全体がうまくたわみます。だから、釣り竿の修理は難しいのですよ。  割れたところを補強して下手に強くしてしまうと、部分的に強くなってしまうので、そのすぐ上の部分に今までより負荷が強くかかり、弱くなってしまいますから。力が均等に行き渡るように修理する、というところが肝です。

コ2 それは、「ここが弱いから、ここを鍛えろ」という今のトレーニングの問題点にも繋がりますね。

小関 そうです。だから、選手にも、極端に部分をやってしまうというのは、実は「そこが強くなるかもしれないけど、同時に弱い所も生まれるんだよ」という話をしています。人間の体というのは全部つながっているので。

 ここを強くしたら、弱くなるところも出る。またそこを強くしても、必ず隙間に弱さが出てくる。便利を知ると不便を知るみたいな……不便だから便利になるというよりも、便利を知るから不便を感じるようになるんだと思います。そういうのと身体というのは、すごく似ているなと。

甲野 手はボールがいきなり飛んで来たり、何かに躓いて転んだりしたときに、条件反射で体を庇ってくれる体にとっての優秀な部下ですが、何かやろうとしても、とにかくまず先にこの手が出てしまいますから、場合によっては、不都合なことが起こるのです。

 その典型例が、座っている人に手を貸して、引っ張って起こそうとしたときです。本来なら、手や腕よりも、ずっと強力な背中や腰の出番なのですが、そういうときも出しゃばりな手が、まず出て何とかしようとするので、背中に任せれば役に出来る事も自分には出来ないと思い込んでしまうのです。これも、便利だから、不便ということですね。

 この状況を変えるために、私は、そこで「旋段の手」という手の指に特殊な形をさせることで、出しゃばりな手に限度ギリギリの仕事を与えて黙らせ、背中の出番があるようにします。そうすると、片手で座り込んでいる人を助け起こすことができるのですが、そういうふうについ働いてしまいそうなところを敢えて働けないようにすることも大事なのです。出しゃばりな体の部位を働けないようにするから、全体のチームワークがうまくいくということもあるのです。

 講習会等でこの「旋段の手」を実演し、初めて参加した人にも、やり方を詳しく教えてやってもらうと、「自分でも信じられません」とすごく驚かれ、「出しゃばりなところを黙らせる」という説明に、「目から鱗が3枚ぐらい落ちました」という反応が返ってきたりします。  こうした体の使い方を学校体育では、およそ教えませんが、現代の教育は物事を「いいこと」「悪いこと」、「正しい」「正しくない」と安易に決めてしまうことが問題ですね。ですが、多くの人たちが、そうした教育を子どもの頃から受けているので、思考回路もそっち寄りになってしまっていますよね。

小関 「いい」「悪い」「正しい」「正しくない」で決めてしまうと、葛藤がなくて実は楽ですからね。

甲野 「いい」「悪い」「正しい」「正しくない」という判断は、コンピューターでもできます。人口知能が人間の知能を上回るのは西暦2045年だと予測されていましたが、それを上回るスピードで人工知能は進歩しているそうです。

おそらく、想像以上の職業が人工知能にとって代わられるでしょう。だからこそ、人間にしか出来ない事とはなにか、人として生きるということは何かということを自分で考えなければならないと思います。

 「手は優秀だけれど、出しゃばりにもなる」「怒っているけど、そういう自分がいて面白い」という、頭では矛盾しているような事象も、体を通せば、矛盾しているからこそ成立するという複雑な状態が成り立ちます。そこに美しさや切なさ、喜びを感じるときに「人として生きている」ことを実感するのではないでしょうか。

 そういう発見は人間にしか―まあ、先のことは分かりませんけど―出来ないことだと思います。ここに、現代で武術をするなど、体と向き合うことの大きな意味があると思います。

小関 以前、格闘家の選手と、雀鬼こと桜井章一雀鬼会会長の所へ伺ったときに、選手が桜井会長に「ギリギリの状態を楽しまなきゃいけないですよね」と聞いたら、会長が「ギリギリじゃダメなんだよ」と仰ったんですよ。「その一歩前のギリギリにならない状態というのが大事なんだよ」と。「あれだけギリギリのことをしてきて!?」と内心ツッコミをいれてしまいましたが(笑)、確かにその通りだと思います。

同じ練習をしても上手になる人とならない人がいますが、その差はどこで出るかというと、限界が来たり、バランスが崩れたりした時に、その苦しさに耐えようとするのか、そこで更に自分の能動性に注目するのかで大きく違ってくると思います。 ここで自分を冷静にとらえ直すことができると幅が広がりますよね。ギリギリのラインだったところに余裕が生まれます。

 もちろん、ギリギリになってバランスが崩れてしまうこともあるでしょう。でも、次にそこを冷静に取り組んでみることがとても大切だと思います。その為には好奇心や興味が必要になってきます。

甲野 小関さんが創案されたヒモトレは、何も考えずに紐を巻くだけで、驚くほどの効果がありますから、今後ますます多くの人に必要とされるでしょう。これについては、これから出す(2016年10月刊行予定)、小関さんとの「ヒモトレ対談本」で語りましょう。よろしくお願いいたします。

小関 はい、よろしくお願いいたします。

コ2 お忙しいところありがとうございました。

(了)

※編集部より

書籍『神技の系譜』カバー

対談にご登場頂いている甲野善紀先生の新刊『武術稀人列伝 神技の系譜』が現在、発売中です。これまであまり紹介されることのなかった、願立剣術・松林左馬助、起倒流・加藤有慶、弓術・松野女之助&小山宇八郎兄弟、天真兵法・白井亨、手裏剣術といった隠れたる名人の姿に迫る、武術研究家・甲野善紀久々の本となっております。

是非、Amazon、お近くの書店さんでお求めください。

書籍『ヒモトレ』カバー

--Profile--

甲野善紀(Yoshinori Kouno)

1949年東京生まれ。78年松聲館道場を設立。日本の武術を実地で研究し、それが、スポーツ、楽器演奏、介護に応用されて成果を挙げ注目され、各地で講座などを行っている。

著書に『表の体育 裏の体育』(PHP文庫)、『剣の精神誌』(ちくま学芸文庫)、『武道から武術へ』(学研パブリッシング)、『古武術に学ぶ身体操法』(岩波現代文庫)、『今までにない職業をつくる』(ミシマ社)、共著に『古武術の発見』(知恵の森文庫)、『武術&身体術』(山と渓谷社)、『「筋肉」よりも「骨」を使え!』(ディスカバー・トゥエンティーワン)など多数。

Web site  松聲館

Twitter 甲野善紀

小関勲(Isao Koseki)

バランストレーナー、1973年、山形県生まれ。1999年から始めた「ボディバランスボード」の制作・販売を切っかけに多くのオリンピック選手、プロスポーツ選手に接する中で、緊張と弛緩を含む身体全体のバランスの重要さに気づき指導を開始。その身体全体を見つめた独自の指導は、多くのトップアスリートたちから厚い信頼を得て、現在は日本全国で指導、講演、講習会活動を行っている。著書『ヒモトレ』(日貿出版社刊)、『[小関式]心とカラダのバランス・メソッド』(Gakken刊) 小関アスリートバランス研究所(Kab Labo.)代表 Marumitsu BodyBalanceBoardデザイナー 平成12〜15年度オリンピック強化委員(スタッフコーチ) 平成22〜25年度オリンピック強化委員(マネジメントスタッフ)日本体育協会認定コーチ、東海大学医学部客員研究員・共同研究者、日本韓氏意拳学会中級教練 WEB site MARUMITSU Kab Labo.

Twitter 小関勲

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