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書の身体 書は身体 第九回 「あなたは自分らしい平がなを書いているか」

止め、はね、はらい。そのひとつひとつに書き手の身体と心が見える書の世界。しかし、いつしか書は、お習字にすり替わり、美文字を競う「手書きのワープロ」と化してしまった。下手だっていいじゃないか!書家・小熊廣美氏が語る「自分だけの字」を獲得するための、身体から入る書道入門。

「お習字、好きじゃなかった」「お習字、やってこなかった」

「書はもっと違うものだろう」

と気になる方のための、「今から」でいい、身体で考える大人の書道入門!

書の身体、書は身体

第九回「あなたは自分らしい平がなを書いているか」

文●小熊廣美

『書の身体 書は身体』タイトル

日本人らしい文字“平がな”

 七回目は、下手でもいい書がいっぱいあることをみてきました。  八回目は、書き順には小学校で教わったばかりじゃなく、基本を押さえていれば、一つに決められたものではなく、それは、人間の質(タチ)や性(サガ)にも関係があるだろうし、書き順は決まりではなく、それなり、であるのが、人間的であることをみてきました。

 それらの共通した鍵は、その人自身の美意識や環境にも影響されながら、呼吸や動きで文字の姿が変わっていくことではないでしょうか。筆文字の弾力はそれを存分に発揮できる捨てがたいアイテムだと強く感じています。 

 今回は、日本人の質や性が、日本人らしい文字を獲得していったのか、「平がな」についてあらためてみていきます。

 日本語の文章の漢字と平がなの比率はどのくらいなのでしょう。

 漠然と七割から八割程度の平がな率と認識して私は今まできました。でも、手で書くのに比べて、キーボード変換で打つ時の方が、漢字率が高くなる傾向があるようです。また、文章も漢字が多いといかめしく、平がなが多いとやさしい印象になるようです。

 もう随分前ですが、ある学者の方が、「漢字で書いても平がなで書いても、どちらでもいいような世の中にしたい」というようなことをおっしゃっていたのをよく覚えています。

 その先生は企業などに書く「推薦状」の「推薦」の字が肉筆でぱっと書けず、平がなでで「すいせん状」と書きたいが、それは逸脱した行為となってしまう社会の気運があり、「これを変えたい」とおっしゃっていたのを今でも忘れません。というのも私も同じように思うことが多いからです。

 私などは変わった字は読めたり書けたりすることが多いのですが、学ぶ時に学ばなかったツケで、常識的な漢字がすぐさま出てこないことがあり、子どもを教えている時でも、ぱっと書けない字が出てきて、よく子どもたちに聞いたりしています。

 そう考えると、平がながあってよかったと思います。

 平がなは今は四十八文字だけ覚えればいいわけですし、どれもとても少ない画数で単純な字形です。

 そうしたこともあり、今は小学校に入ると、まず平がなから学ぶのだと思います。といっても、今は小学校入学前に平がなや簡単な漢字を覚えていたりする子も多く、ここには結果だけみている大人の視点の恐さがひそんでいて、危ういとよく思います。

 脱線しますが、小さい子こそ結果を求める前に、持ち方というところに気を置き、書く行為そのものの身体の使い方を見てあげる大人の視点が大事だと思います。子どもを教えていて、字は上手くなっても、一度それなりの型にはまって、クセのありすぎる持ち方を矯正するのはそう簡単ではありません。

学校教育の平がなの呪縛?

 閑話休題。カタカナから習った時代もあったようですが、現在の小学校ではまず平がなから習います。そして、いい方は悪いですが、大人になっても小学校で習ったままに、小学校用の平がなを我われは覚えこまされてきているのです。

 たとえば、「ね」「れ」「わ」は、縦画の左側はみんな一緒で、右側に下から上に行く斜めの線まで同じで、最後で結ぶと「ね」、最後を右にはね気味抜いていくと「れ」、上から左側に入ってくると「わ」。

 それでもいいのですが、そうでなくてもいいのが肉筆の魅力で、平安の昔から今まで使われてきている少しの違いのある平がなも、大人なら使っても問題なし。むしろ大人だからこそ、使った方がいいと思うのです。覚えるのが面倒というほどのことはありませんので、ちょっと頭の体操みたいなノリで、観ていってください。

図1 ね、れ、わ 今昔

 はじめに言っておきますが、簡単な字形の変化でも、書けないとしたら、それは習慣性です。身体にすり込んできた長年の習慣が、簡単な変化を受け付けてくれないのです。

 一つの型を我われは小学校から学んできました。それは、誤解を恐れず大胆に言ってしまえば、活字のような型なのです。四角四面の活字に近づけた型なのです。

 その型はまず、小学校では善しとしても、その型だけで大人まで来てしまっていいのでしょうか? 実際、日本の書写教育でも、中学校前後で楷書を少しくずした行書を教え、もっと簡単に早く書ける方法を教えてはいるのですが、他に教えることが多いようで、書写の時間にあまり多くの時間をさいて教えるられることはなく、結局小学校の型をそのままに、怒涛の詰め込み教育の波に放り出されていくのです。その結果、自分の身体性の責任において、自分の型としての書き文字が形づくられてきたのです。

 さて、そんなわけで、小学校で習った平がなと、昔から書かれているかなの一例を挙げていきます。

 小学校では、「る」と「ろ」は最後を結ぶか結ばないかの違いになっていますが、これも決まりきってなくていい。「る」は岩二つのコブを流れるようなリズムで動いていってみてください。

図2 る、ろ 今昔

 左と右の下部が揃う「ん」と「え」など、区別ができ、似ているものは同じように書けば済むような省エネ的教育的配慮で整理されてきた字形が、今の我々が習ってきた平がなのようです。ですが、本来平がなとはもっと自由度の高いものです。簡単に言えば、今の教育的な文字は印刷のように読みやすく効率化を求めた、活字に近づいていったものといえそうです。

 次の「え」などどうでしょう。横書きならば今の「え」でもいいでしょうが、歴史的にはこの肉筆の方が自然です。

図3 ん、え 今昔

 もっとも、“平がな、平がな”といっていますが、現在の形に定まったのは、1900年明治三十三年の小学校令から、平がなは、この時、一字一音に決められました。

 今でこそ「あ、い、う、え、お」ですが、それまでは、アの音は、「あ」「安」「阿」「悪」「愛」(などからのくずれた字形)などを使い、イ音は「い」「以」「伊」「意」「移」(などのくずれた字形)などを使っていました。今では「あ」「い」「う」などからはずされたかなを「変体がな」といって、区別しています。

 ちょっとした変体がなを使う場面は今でもちょくちょくあり、例えば年賀状で「あけましてお免でとうござい万須」(※漢字の実際は、くずれている変体仮名です)や、「御」は漢字用法ですが箸袋は「おてもと」が「御て茂と」とあったりします。 あなたの近くのおそば屋さんは「生蕎麦(きそば)」か「生そば」か、それとも、変体がなが使われている「き楚者(者に濁点付きが多い)」でしょうか。看板にもこだわりがほしいと思います。

変体がなの「きそば」看板

そもそも平がなの歴史は?

 江戸時代に九州筑前国は博多湾に近い志賀島の田んぼから百姓甚兵衛が金印を発見。 よく知られた「漢委奴国王(漢に隷属する倭国の国王)」印は、交通を求めて使者が来貢し、後漢の光武帝から九州の小国を治めていた国王に、印綬を授けて、主従関係を結んだと一般的に言われているものです。どれだけ当時の倭国に漢字理解力があったかは不明ですが、一・二世紀の漢字とのめぐり会いを示す、よく知られたエピソードです。

 そんなことを経て、四・五世紀になって、百済から集団で技術者が帰化し、漢字文化が本格流入されてきたといわれています。

 日本には漢字が伝わる前からホツマツタヱなどの文献をしるしたヲシテ文字など神代文字があったとする説があり、大方の学者が江戸時代あたりの偽書とするなか、新たな日本の歴史像などを示し、売れっ子歌手もそこから影響を受けて歌を作ったり、根強いファンをもっていますが、ここではそれ以上触れません。

 さて、それでは、その漢字と日本人はどう付き合っていったのでしょうか。

 中国・朝鮮の大陸の先進文化を学ぶにあたって、漢字漢文は指導者たちの必須の教養となっていったのでしょう。

 六世紀から七世紀にかけては仏教が伝来し、聖徳太子が活躍する時代ですが聖徳太子の肉筆と言われる『法華義疏』は漢文で書かれた日本で初めての書物です。その後の『日本書紀』なども含めて、見事な漢文を使いこなしながら、日本語を表す手立てを持っていなかった日本人は、日本語をそのまま表記するために、漢文を構成していた漢字を利用しました。

 例えば「墨を用いる」は、漢文では「用墨」。漢字を利用した日本語では、例えば「寸美遠毛知為留(すみをもちゐる)」と、似ている音を持つ漢字を一字一音ずつ借りて書いていきました。

 大陸と同じ漢字を使いながら、日本語を表すために似ている音を持つ漢字を、ほぼ一字一音にして借り当てていったわけです。万葉集ができた時代の使い方だったので、のちにそれを「万葉仮名」というようになりました。

 そのころ飛鳥・奈良時代であった日本では、隋・唐あたりからの大陸文化を吸収していくわけですが、大陸では、楷書、行書、草書中心の時代です。特に遣唐使が伝えたのは、初唐の太宗皇帝以後尚更に書の神様となった王羲之(おうぎし)中心の文字世界です。

 そういうなかで、文字を多く書いていくと、早くなる、崩れていく、のが身体の理であるのかもしれませんが、万葉仮名は“草”のかなとなっていきます。いうなれば草書の形です。

かなの原初風景“草”のかなの名品として伝わる 伝小野道風「秋萩帖」

そして更に、草のかなから、平仮名へ。

「保」草書 「ほ」平がなの「ほ」のくずしは日本独特

 ここまで来ると、漢字の究極のくずしである草書を超えて、日本独自の文字となっていきます。  ここには、過去の物語を口承として伝えてきた日本語の特徴や、言葉や詩歌を朗詠しては消えてしまう言語運動から、筆文字で書き写すなかで、筆文字が同じ調子で展開されるわけではないにしろ、全体からは、口ずさんだり詩歌を朗詠したような気分がなお残ります。

 中国の漢字がもともと獣骨や石に刻まれながら、文字に魂を宿してきたことと、口ずさみ朗詠されながら言霊として魂をのせてきた日本との違いがあるなかで、平安の古今集などを書写した名筆をみますと、専門家以外にとっては読みづらいでしょうが、それでも、文字が持つ空間やリズムが、その当時の日本人の持っていたものを表し、言霊の国の表記をそこはかとなく感じさせてくれるのではないでしょうか。

 残念ながら先に書いたような教育的な事情もあり、そうした味わい深い平がなは少なくなりつつありますが、現在でも、いいかな書の作品はそんなことを感じさせてくれます。

平安時代の名筆「寸松庵色紙」

字が秘める可能性

 さてさて、そんなことを含んだかなの現代の様子ですが、かなは手書きの七、八割といわれながら、文章はパソコンや携帯で打つことが多く、書くのは、署名だったり日付だったりで、「かなは今、書かないのだ」と言われてびっくり。かなの使用率は、手書きでは、意外にも低いのかもしれません。

 これをお読みの方のなかにも、今日一日の漢字とかなの手書きを思い出してみれば、「肉筆なし」かもしれませんね。

 しかし、です。

 肉筆、特に筆だからこそある弾力性は、力加減を指先で繊細に筆から紙に伝え、表情を幾重にも描きだし、字の安定を求めて白い紙の中でバランスや間といったものを知らずしらずに気にしていきます。姿勢や身体性がよくなければ、弾力ある筆の機能の展開は弱く、身体運動と直結していることを思います。人間は、筆の弾力性のなかに手と脳の一致によって、心と身体の芯を一つにすることができる。これは筆文字の大きな力だと考えます。

 色々な角度から、武道、音楽、小説、デザイン、絵画、文学、哲学、芸術、工芸などなどの連携や関係を、書は有していることを最近強く思います。脳内運動としても多くの場所を使い、高度な操作が行われていることを思えば、当然のことなのかもしれません。

 そうした中、茶道や香道と同じのような総合的な芸術であるなかで、その世界の核心そのものを中心に学べるのが、書や書道といわれるものであって、ただ字を書くことから究極の身体を手に入れることの可能性まで秘めているものと思います。

 それは、基から抽象的な書において造形原理と線運動という動きの中から、芯をもって座りのいい文字感覚を絶えず求めている中で、二次元の結果ながら三次元の動きをもって究極の空間性を捉えようとしているのが書であるからです。

 そのなかで平がなは、漢字の構築性よりも、なお流動性のある線表現で空間を生み出して成り立っているのが特筆されるところです。

 さあ、みなさんはどんな平がなを書いていますか。あらためて書いてみてください。

「あいうえお、かきくけこ……」と。

「いろはにほへと」で書けますか?

 戦後、旧かな遣いが廃止されて「あいうえを」に押されていますが、何かと捨てがたい「いろは歌」です。

いろはにほへと   色は匂へど ちりぬるを     散りぬるを わかよたれそ    わが世誰ぞ つねならむ     常ならむ うゐのおくやま   有為の奥山 けふこえて     今日越えて あさきゆめみし   浅き夢みし ゑひもせす     酔ひもせず

 いろは四十七文字。最後に「京」や「ん」を入れたりして四十八文字にすることがありますが、「ん」は「む」と同じに使われていました。「ん」のもともとの漢字(字母といいます)は「无」。「无」は写経などに「無」の代わりに使われたりしているように、無の略字として使われ、平安時代のかなで書かれた古今集なども、「む」を「ん」と書いたりすることもありました。

 さて、いかがでしょう。

 私の敬愛する知人の「いろは」をここにお見せします。

いろは

 いいでしょう! 書けば、善い! のが筆文字です。  上手い下手の判断は、お習字や書写の時間だけです。それを飛び出せば、如何に筆文字で書くか、で、善い! や、花まる! です。そこには自分のまる裸の心があるのです。

 平がなは、一画から四画しかなく、アルファベットなどに比べて天地左右を自在に動いて、筆文字を使えば、その弾力は心のままに、その時の真実を伝えます。

 漢字をくずしてなお省略していって出来上がったかな文字は、どこまでも柔らかな姿で自在に変化することを待っているような表現世界です。

 次は「の」に少しこだわってみます。

の 乃

・もともと「乃」です。 ・「ノ」から、戻るように書くか、「ノ」のあと広く遠回りして書くか。 ・止まるところが、二回か、一回か、止まらないか。 ・それとも、まだまだ……。最低守らなければ成らない形を有しながらも、限りなく自由です。

 現在使われている世界の文字は、抽象的な線運動でなっているのは共通したところでしょうか。  その中で、漢字だけが複雑なのかもしれません。  単純な線構成は、動き次第で大きく表情を変えるともいえるでしょうか。例えば「す」「は」は以下に。

す は

 円運動そのままで、結びに突入すると、それも表情。明るい感じです。 「おはよう!」はそんな気分がぴったりでしょうか。

おはよう

 様々な線運動が行われて、お一人おひとりの文字が生産されていっているのです。  線運動が形を作り、表情を作り、感情を作りだします。  その基本形たる文字はあっていいのですが、基本はあくまで基本でいいじゃないですか。ベースでいいのです。

 ただ、例えば「ち」を以下のようにわざわざお腹をへこませたように書く書き方も、間違いではありません。デザインとしても成り立つ可能性もあるでしょう。ただ、ここでは線運動の自然さという観点から、一画目から二画目の自然な動きとしての「ち」を基本として考えていきたいのです。基本は自然なる身体性として文字の在り方です。

ち ち自然

 その辺を中心に基本字形を気にしながら、自然な身体性という観点から平がなの形をもう一度みていきます。

 以下、一つの「いろは」の例を挙げます。一字につき一字の説明もありますが、長くなりますので、気になった文字だけでも、注視してみてください。

いろはの身体性

いろは歌 小熊一例

い 一画目から二画目へジャンプします。人間ならば、膝を緩めてジャンプするように、一画目の最後は筆の弾力の在り方で、ハネの表情や飛んでいく距離が変わります。字母「以」。 ろ 二つの折り返しを経て最後は筆の弾力を解放させ、方向を決める。最後の方向はあなた次第。一つの自分の美意識の方へ。字母「呂」。

は 字母「波」の揺らぎを持って書いてみるのもいい字ですが、“結び”も色々な書き方があって、表情も変わります。線運動の結果がよく表情として現れるポイントかもしれません。他の字の結びも気にしてみてください。

に 左と右に分かれている平がな(に、ほ、け…か、た…)は、その感覚が広めで安定することが基本ですが、これは左から右へ飛ぶ運動性の大きさと言い変えられそうです。字母「仁」。

ほ 漢字の草書の「保」にはなかった独特のくずし形でなった「ほ」なのですが、小学生への教え方として、“結び”を漢字のくずしからの三画結びに、という人もいれば、「は」などと同じように楕円のリボン結びにして同じでいいとする派に分かれますが、大人は時と場合によって、どうにでもなることを知っておきたいです。

へ 起筆は折り返しから考えると、その反動から線条が生まれます。そこを含めたたリズム。字母は「部」というより、そこからさらに右側半分の旁(つくり)である“おおざと”から。こんなのも漢字の草書から離れた用法。今回触れていないが、カタカナの作り方に似ます。

と 下におりてきての反動として次画に動く運動性を基礎エネルギーとする場合と、ジェットコースターのように滑空する如くしてなる二つのパターンを知っておくといいでしょう。字母は「止」。

ち 一筆目から二筆目に自然に動くと、左に丸くふくらむ。縦画最後は止まった反動を使って押し出してやるだけ。方向はわりと横に出せばいいところかも。字母「知」。

り 一画目ハネの反動で二画目へ。最後は真っ直ぐの意識。平がなの円転の運動慣性が自然に最終画を曲がらせますが、無理に曲げることもない。字母「利」というより右側半分の旁である“りっとう”から。「へ」同様カタカナの作り方に似る。

ぬ 一・二画目の打楽器的な動きは、「め」に似ている。もともと「め」の字母は「女」だし、そこから「又」を続けくずれて書いていったわけですが、慣性の曲線でなっていったのですね。それにしても、最後は小さく結ぶようになったのは、これまた平がなだけの特徴です。字母「奴」。

る 教育的には「る」は「ろ」と同じようにして覚えやすいようになっていますが、「る」は平安の昔から、急流にある石のコブをすべるようにいく水の如くになる字です。もっとくずしてコブがなくなってしまう「る」もあるくらい。「る」は「ある」「みる」など、言葉にしてみると小さくなる?から「る」は小さくなることが多い? 「め」や「と」なども小さくなることが多い字ですが、日本語との関連を感じます。「おめでとう」と書けば、「め」「と」は小さめか。字母「留」。

を 三つの折り返しがリズムを生みます。最後を小さく書くと品がいいのは、美意識なのか、折り返しの運動性のせいなのか?字母「遠」の最後のしんにょうが小さくなって、平がな独特に。

わ 「わ」は「和」。「ね・祢」や「れ・礼」と違い、字の右側の旁は上下動が大きくなく、和の“口”は横にすべる感じ。小学校で習うように「わ」「ね」「れ」を最後のまとめ方を変えただけで、ほぼ同じようにしたのは簡単単純の教育的配慮か。 か カーブをゆっくり書いたら、あとは「い」に似て、ジャンプ。遠くにジャンプするのが善しとするのは、運動性→生命感か。字母「加」。

よ 字母「与」をつなげて書くというのが自然な動きでいいと思える「よ」。縦画が少し「S」字に動く理にかなったカーブがみたい。

た 字母「太」である「た」が、「に」に似る動きになるほどになった。「に」と同じように左側から右側へ、遠くにジャンプすれば、生命感あり。

れ 最後の右上の転折からは、ジェットコースターから大空へ飛び出るつもりで。字母「礼」。

そ 三つ折り返して弾力を持った動きの最後は「て」と似て下方へ飛び込む勢いのままに!字母「曽」。

つ 突いて入ってみるとそのままの反動のままに。最後のカーブはゆっくりして方向をきめる。字母「川」が、動いて略され、横にス―と走る字になった。

ね 「れ」と似ているが最後は逆方向にまいてきて、いったん止まって結ぶ。惰性が曲線をつくる。字母「祢」。

な 左右に振って中央にもどり「よ」の後半に似るもよし、三角にしても、結びを小さく小さくして白がなくなってもいいのは、大人の特典。結びを持つ字の共通項である。字母「奈」。

ら 「ち」と似る。一画目から二画目はお相撲さんの賞金をいただく時の動きに似る。意識をおいてから下へ。止まった反動を利用して、脇に押し出していく。字母「良」。

む 前半は「す」に似て、最後はすこし四角を意識しながらサーフィンのように動き、遠く上に点をうつ。動きが大きいのは、生命感。字母「武」。

う 意外かもしれないが、一画目の点と、二画目の右側は、上下の縦ラインが揃うほどでいい。もともと字母は「宇」であって、中央の点であったものがうしろへ。なぜか。点からのはねる運動性の大きさ、それに則って縦ラインが揃うほどに、直角の角が直線的になるのは、ゆっくりな角の運動がある。ここも運動性と美意識が形を作っていったのか。まん中に点をおくと右上の角を円くしても成り立つ。丸文字ならまん中の点でもいいのだろう。

ゐ 今は使う事があまりありませんが、前半と後半の二画で書くつもりがいいかも。字母「為」。

の 書き方はいろいろだと思えるポイントの字ですが、慣れない人は「✓」と、最後の二つで止まればいいし、慣れてきたら、どちらか一つの止めとなって、最後は止まらなくてもいいのかもしれません。いずれにしろ、円性のなかに線の緊張を持ち、惰性で動きながらも、最後の毛の一本まで意識持ちつづけましょう。字母「乃」。

お 字母「於」。十を書いて、「の」のような円性エネルギーのまま動いて、その慣性で遠くに最後の点をうつ。字母「於」。

く 左へしっかり入っては方向転換し、その慣性で右下へ行きながらリズムにのり、最後は大事にぬくとか止めるとか臨機応変。字母「久」。

や 字母「也」を続けて書く要領でいいかも。止まるところがあるとすれば、最後の一画の上部。折り返しで止まれば、なお安定か。

ま 「こ」と「よ」の連続のように。字母「ま」。

け 一・二画の連動が大事。最終画は下に。字母「計」であって、右側は「十」であるが平がなの円性の習慣性で自然に曲がるだけ。

ふ 左右の点はそのまま点にするか、つなげるか自由度大。最後の点は「い」のジャンプのように、まん中をまたいで大きく動いでなるもよし、「つ」のようにつなげるもよし。字母「不」。

こ 上下の動き。包むように。慣性は下を大きくする。字母「己」。

え 教育的「え」よりももっとたたみかけるような「え」でいい。リズムがある字である。字母は「衣」。横書きで変わる代表的な字かもしれません。横書きならば、活字的な「え」となっていく方が自然な動きでしょうか。ならば、普通の「え」でもよし。それでも縦書きのダイナミズムでなる「え」もみなさんのなかの一字にしてほしいところです。

て 「の」の動きと反対「と」の動きの大きくなったもの。角のピークで動きが止まったら、下へヒューと滑り込む。字母「天」。

あ 字母「安」は、まず点を打ち、ワかんむりを書いたのではなく、ワを先に書いて点と女一画目をつなげて書くのが楷書でも多かった。その書き順でワかんむりが一直線になり、次に「め」と同じように、下にきたらその反動で上に呼び込んで、「の」を書くようにいく字になった。 

さ 「と」の動きに似る「て」、その遠心力のままに「さ」と書けばいい。活字的、教育的に書かなくても成り立つ字のひとつ。字母「左」。

き 軽く二本書いたらその次から次へ緩やかな「S」字の動きになるのが、自然な動きか。結果は斜め一本線でもいいが、根本思想は「S」でいい。字母「幾」。

ゆ 字母「由」の草書の書き順を更に動かす。動きを変化させるところが二か所あるが、縦画がまん中に来ないのは、遠心力の大きさ。それに、一つの文字の中だけの問題ではなく、次への文字へつながる動きのなかから形が出来上がっていったのかもしれない。

め 「あ」「ぬ」の部分的にもなるが、字母は「女」。「め」という言葉との関係を問えるのか、字形が小さくなって落ち着く。

み 放っておけばメビウスの輪のようにもなるが、「み」はほかに似ている動きがないのか、独立させて目立つところがある。止まるとすれば、はじまりの下部✓のどちらかで止まる。字母「美」。

し まったくのっぺらぼうのような縦一本の線ではなく。字母「之」をどこまでも下に伸ばして、左右の抑揚あるリズムをとると古典的かもしれないが、線条が美しい。解放の一線である。

ゑ 左側で突くのが二か所、そこからのリズムか。上部「る」と下部「心」の一体感か。字母は「恵」。

ひ 「e」を二つ書けばいいのか、「て」と「e」と書けばいいのか。ポイントは横から下へそこからまた上へと。最後は下気味に。字母「比」。

も 字母「毛」の草書は一画目からそのまま中央の画へ。その後、横二本。その二本の線も一本にしてしまうことも多い。略式の平がなの極意かな。

せ 「て」の横画最後をはねて次の画へいき、そこからリズムよく左へ移動して線を下せば「せ」のできあがり。字母「世」。

す 三画結びは三つすべて止まってもいいが、徐々に、二つ止まってみる、最後は一つだけ上で止まってみる。止まると惰性で下に行く線は短くなる。最後の線が長くなったり、結びが大きく円くなるのは止まらない暴走車ような動きになる。それも身体性の結果であって、そうした動きを使いこなすのは面白いが、基本は止まるところを持って安定した型を知っておくといい。字母「寸」

ん 「む」と同じに扱われる。もと「無」の写経等で使われた略字「无」が字母となる。下、上と大きく折り返しそのリズムのままに最後のカーブへ。大きな字となる動きがある。

自在を手に入れる

 それでもこれは一つの平がなの在り方。一例にすぎません。お手本をみてお手本に似れば最高なわけではありません。あくまで、参考でいいのです、自分らしく、もっと変幻自在に変わるのが平がなです。  決まりはありますが、自由度も大であります。

 ここまで観てきて、“えっ!”とおもうことがあったかもしれませんが、先入観や固定概念を一度壊してみませんか。

 変えようとしても変わらないかもしれません。はたまた一字を変えただけで、世界が変わるかもしれません。世界は不思議に満ちています。可能性もいっぱいです。一字の平がなの身体運動を手に入れたら、あとは次々に、です。けっして、人間は活字の定着に染まるのではなく、書き文字のように、次から次へ展開しながらの身体性をもって生きているのです。

 いいものを観て眼を鍛えることは人間として常々意識していってほしいですが、上手い先生のお手本を真似るのは謙虚な態度でいいようですが、最後までそのことに固執しなくていいのです。形ではなく、むしろリズムや呼吸といった身体性を感じとって、自分らしさの手掛かりとしていってほしいものです。

(第九回 了)

小熊先生の講座のお知らせ

(池袋コミュニティ・カレッジ 講座ページより)

本連載の、小熊先生と映画監督・矢崎仁司氏、ナビゲーターの渡邊玲子氏による講座「『無伴奏』を、観て、書く」が来たる11月12日(土)、池袋コミュニティ・カレッジにおいて開催されます。

講座では映画『無伴奏』(監督・矢崎仁司)の一部を観ながら、その時の息づかいや想いを、筆で書き留めることで、映画の世界を追体験するという異色の試みになる予定とのこと。詳しくはこちらをご覧ください。

講師:映画監督・矢崎仁司、書家・小熊廣美、ナビゲーター・渡邊玲子

日時:11月12日(土)13時30分〜17時30分 会場予定13時15分

参加費:1回 会員・学生3,460円 一般4,000円(税込)

ご持参品:筆、半紙30枚程度(用紙は自由)、墨 お好みで。筆ペン、鉛筆、スケッチブックなども可(硯、文鎮、下敷き(半紙用)の備品がございます)

※講座終了後、『無伴奏』DVDをご購入の方に矢崎仁司監督がサインをいたします。

お申し込み・お問合せ:池袋コミュニティ・カレッジ(03-5949-5481)

※お申し込みはご来店または電話、WEB決済となっています。

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-- Profile --

小熊廣美(Hiromi Ogura)

著者●小熊廣美(Hiromi Oguma)

雅号●日々軌

1958年埼玉生まれ。高校時代に昭和の名筆手島右卿の臨書作品を観て右卿の書線に憧れ、日本書道専門学校本科入学。研究科にて手島右卿の指導を受ける。

その後北京師範学院留学、中国各地の碑石を巡る。その後、国内ほかパリ、上海、韓国、ハンガリーなどで作品を発表してきた。

書の在りかたを、芸術などと偏狭に定義せず総合的な文化の集積回路として捉え、伝統的免状類から広告用筆文字まで広いジャンルの揮毫を請け負う。そして、子どもから大人までの各種ワークショップやイベント、定期教室において、また、書や美術関連の原稿執筆を通じ、書の啓蒙に務めながら、書の美を模索している規格外遊墨民を自認している。

〈墨アカデミア主宰、一般財団法人柳澤君江文化財団運営委員、池袋コミュニティカレッジ・NHK学園くにたちオープンスクール講師など〉

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