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【連載】“武蔵兵法”の読み方 第三回 「稲村清先生のお話」

武術愛好家はもちろん、大凡日本人、いや世界的にも有名な剣豪といえば“宮本武蔵”だろう。

16歳で初めての決闘を始め、60予の戦いにすべて勝利し、二刀流を遣い手であるとともに、『五輪書』と題する兵法録を書き遺した希有の剣豪として名高い。その姿は吉川英治氏の小説『宮本武蔵』をはじめ様々なメディアで描かれ、今日では井上雄彦氏の描く人気コミック『バカボンド』へと続いている。しかし、改めて武蔵が求め、修めた武術がなんであったのかについては、意外なほどその真像は知られていない。そこで本連載では、自ら二天一流をはじめ、様々な武術を学ぶ高無宝良氏に、武蔵の兵法について記して頂いた。

“武蔵兵法”の読み方

第三回 「稲村清先生のお話し」

●高無宝良

野田派と山東派、二つの“二天一流”

 みなさんこんにちは。「武蔵兵法の読み方」第三回目です。

 前回までと少し話を変えて、ここでわたしの二天一流修業時代のことをお話ししたいと思います。  その前にまず、読者の方には現在の二天一流に二つの派があることを知っておいていただくべきかもしれません。

 二天一流は現在に残っているものはいずれも肥後細川藩(熊本県)に伝来したものです。江戸時代には他藩にも広く伝播した実績があるのですが、いま知られる限り、惜しいことに他の伝系はいずれも途絶えてしまいました。

 肥後細川藩に伝わった二天一流のうち、一つを野田派といいます。

 野田派二天一流は現在でも熊本県を中心として教授されていて、武蔵の晩年の位(精神的・身体的境地)を惜しみなく表現した大変に高雅な趣のあるものです。

 もう一方の派を山東派(さんとうは)といいます。

 山東派二天一流は、もともとは肥後細川藩の柔術師範家である山東家が伝承していたもので、野田派と形の基本構成は似ているのですが、もう少し直截的で剣戟らしい表現をします。

 実は肥後細川藩には他にもいくつか派と称せられる二天一流の伝系があったのですが、いま現在教習を維持されている系統はまずもってこの二派としていいでしょう。

 わたし、高無の修業した二天一流は、このうち後者の山東派の方でした。  山東派は、幕末から明治にかけての伝承者だった山東清武師の教授を受けた肥後士族の青木規矩男師が伝えたものが、現在残るすべての伝系の源になります。このことから青木師は昭和中興の祖という言われ方もします。

 わたしが教えを受けたのは、この青木師に長年親炙(しんしゃ)した稲村清先生でした。

二天一流の指導を行う高無氏

「あんた、左手も効くか?」

 稲村先生は、戦前戦中と学校教師として植民地台湾に赴任していた青木師に十代から教えを受け、その教えを色濃く受け継いだ一人です。

 稲村先生から教えを受けることになったとき、わたしはまだ十代で、とある武道団体に所属していました。 その団体ではもともと二天一流を教授していたわけではないのですが、代表者の先生の剣道関係の繋がりなどにより、ある時から稲村先生が教えに来て下さることになったのです。

 その少し前、団体代表の先生から、稽古後のファミリーレストランで何の気なしにこんなことを聞かれました。

「あんた、手は両利きか?左手も効くか?」

 たしかわたしはこんな風に答えたはずです。

「まあ、多少は効く方だと思います」

 すると団体代表の先生はこう言いました。

「そうか、じゃああんたは二天一流をやらなきゃなあ」

 その時わたしはことの経緯をよく分かっていなかったのですが、こんなやりとりから、わたしが二天一流を教わることはなんとなく決定されてしまっていたのでした。

 そしてそのすぐ後から、実際に稲村先生が毎週稽古場に来られて、7〜8人での集団指導が始まったのです。

 初めて稽古場に来られた稲村先生は、小柄な、髪の毛も肌ももう色素が抜けて白くなったおじいちゃんでした。  御齢80歳で、とくに威圧感のようなものもないけれど、どちらかというと無表情に近く、居住まいは正しくただ卒然とそこに在るといった印象の佇まいでした。  この老人からどのような動きが現れてくるのか、その時のわたしはただそれだけの興味と期待でわくわくしていました。

何が違うのかが分からない稽古

 指導の一回目。  山東派二天一流の稽古は、まず一刀の形から始まります。二天一流といってイメージされる二刀流ではなく、敵も一刀、こちらも一刀を用いて戦う想定の形です。

一刀の形第一本目は「指先(さしせん)」といいます。  この形は、こちらが右片手に刀を持ちただぶらりと下げた下段の構えから、歩み寄り、敵が八相からこちらの正面を切ってくる。それをわずかに右側にかわしつつ、こちらの刀は右手を挙げてそのまま敵の喉を突く、という動きです。

 一見とても簡単な形なので、十代ですでに数年剣術の稽古をしてきていたわたしも当然、すぐに真似してやることができました。  簡単なので五回、十回と繰り返しやってみていたところ、稲村先生から「違う違う」との声がかかりました。  稲村先生は椅子から立ち上がってトコトコと歩いてきて、そばにいた人を相手役に立てて打ち込ませ、ご自身で指先の技をやってみせてくれました。

「こう」

 「ははあ……」とわたしは答えましたが、その時の稲村先生の動きは、なんというかただ日常的な雰囲気で動くだけで、なにか特徴的な部分があるわけではありませんでした。第一、わたしの動きがどう違うのか、なにを仰りたいのか、よくわかりません。

 それだけ示すと稲村先生は、またトコトコと椅子のところまで戻っていって座ってしまいました。

「わかりました」

 一応言ってはみたものの、なにが注意点だったのかわからないわたしは、とりあえずまた繰り返しやってみることしかできません。二、三回やっているとまた稲村先生が椅子から立ち上がってやって来て、「違う違う、こう」と同じ動きをやってみせてくださいます。 しかし、わたしはまだわかりません。何度もこちらの動きをやって、見ていただきつつ、

「こうですか」

と聞きますが、

「違う違う」 「こうですか」 「違う」

 その繰り返しになってしまいました。

“ 一体この先生はなにを仰っているんだろう??”

 いよいよわたしが不可解な気持ちになり始めたころ、さらにその技について稲村先生が加えて仰ったのが、

「(相手が)打ってくるのを避けない。そのまま突く」

という言葉でした。

 どういうことだろう?? 敵が打ってくるのを避けずにそのまま突くだけなら、当然頭か顔を斬られてしまいます。良くて相打ちになります。  稲村先生の言葉がまったく理解できないわたしは、その日はただ頭が混乱するばかりで稽古を終えることになってしまったのでした。

 この不可解な状態は稽古を二回、三回と繰り返しても続きました。  さらに習っているわたし達の頭を悩ませたのは、稲村先生が時折、一つの形の動きを示すのに明らかに約束と違う技を遣われたことです。打太刀(形の中で、主に技を遣う側を仕太刀というのに対し、その相手役として仕掛ける側を打太刀といいます)を務めるわたし達は毎回同じ動きをしているはずなのですが、それに対する稲村先生は「それだとこう」「こうなる」などと言いながら、あるいは全く何も言わずに、毎回のように違った動きをされるのです。形で決まっている約束通りの動きをされることはむしろ少ないといってもよかったでしょう。

 この事がわたし達の混乱に拍車をかけて、ますますこの二天一流という流派に対する理解が難しくなったように感じられました。

違和感の中から見えてきた“気づき”

 だんだんと得心がいかなくなった若い稽古者のわたし達はひそひそと話し合った上、あるとても無粋な懸念を共有するに至りました。  つまり、

「稲村先生はもうご高齢だから、少し頭の方も老いてしまわれてるのではないか……」

という失礼極まりない邪推です。退廃的かつ素朴すぎる考えながら、その時の不可解な状況に一定の納得を与えてくれるものではありました。

 どことなくそんな諦めの気分が漂いはじめた稽古の日々の中、ある時、わたし達はまた一刀の形一本目「指先」を練習していました。  一番初めの稽古の頃とさして変わらない理解のままだったわたしは、また自分なりの同じ動きを繰り返していたのだと思います。  しばらくするといつものように稲村先生が椅子から立ち上がって、「違う違う」と仰りつつこちらに来られました。 と、そのままご自身が仕太刀になって、わたしの打太刀の動きに対して指先の技を遣って下さいました。その時まで七〜八回は稽古を重ねていたと思いますが、稲村先生が他の誰かに対して技を遣うところを横から見てはいても、自分に向かって動きをやってもらうのはこの時が初めてだったのです。

 自然体で右片手にぶらりと木刀を下げる稲村先生に対して、こちらは打太刀の構えである八相の位をとって、一歩、二歩、三歩……、と間合に入ります。

 すると、いつも横で見ていたのとは若干ながら違う感覚がありました。今までは打太刀の打ち込みに対して身をかわして喉を突いているように見えていたのですが、相手に立ってやってもらうと、僅かですが仕太刀の稲村先生が“こちらが打ち込む前に先に突いている”ように感じたのです。

 いえ、実際に早く突きの動きを出してしまうと打太刀の攻撃は変化しますから、それほど明確に早く動いているというわけではありません。動きそのものというよりも、こちらの打ち込みの予備動作の間隙に対して空間を先んじて制してしまうような意識、身体全体の働きがあったのです。

 もっともその時のわたしはそれをほんの少しの違和感として捉えただけで、原理的にどのような違いがあるのかまでは意識していませんでした。しかし少なくとも、いつも横で見ていた時のなんとも言えない“納得のいかない感じ”の原因が、もしやこの違和感にあるのではないかという事だけはその時、気付く事ができたのです。

 後から思えば、この時の小さな気づきが稽古全体の質を変える大きなターニングポイントでした。あの時わたしはこの小さな違和感を無視してそれまでと同じ自分のほしいままの稽古を続ける事もできたでしょうが、もしそうしていたらそのまま剣術における間合と拍子の妙や、二天一流がなにを目指している兵法なのか理解できないままでいたと思います。

 剣術をある程度きちんと稽古された方なら、剣術全般に普遍的なこうした間合や拍子のことは改めて言われるほどの事ではないでしょうが、その時までのわたしは決まった動きを決まった間合・拍子で繰り返しては上手になったつもりでいるだけで、この部分を実はよくわかっていませんでした。

 ですので稲村先生の二天一流を通じて感得しえた経験が、のちの武術修業全体を通じて大きな糧になっていったのです。

 次回は、この時の「指先」の形における質的な気づきの内容を、少々語らせていただきたいと思います

(第三回 了)

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-- Profile --

高無宝良(Takara Takanashi)

著者高無宝良(Takara Takanashi)

幼少期より各種格闘技、武術を学ぶ。

平成11年 数年間二天一流稲村清師範に師事。

平成21年 関口流抜刀術山田利康師範より関東支部設立を拝命したことを機に、同支部を兼ねた抜刀術及び剣術の修練のため古武道学舎清風会を発足する。

平成22年 小用茂夫師範のもと刀禅を学習。

平成23年 新陰流兵法山本篤師範より同流指導の許しを得る。

平成27年 古武道学舎清風会より古武術是風会に改称。

会の活動などのお問合せはメールでこちらまで。

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