UFCとは何か? 第六回 「初代ライトヘビー級王者フランクが連続防衛、髙阪が初参戦、ミレティッチ、ニュートン、ダンヘン、リデルも参戦。だが選手の日本への流出が続く……」
現在、数ある総合格闘技(MMA)団体のなかでも、最高峰といえる存在がUltimate Fighting Championship(UFC)だ。本国アメリカでは既に競技規模、ビジネス規模ともにボクシングに並ぶ存在と言われている。今年7月には大手タレント・エージェンシーであるWME‐IMG(*1)が40億ドル(4000億円以上)という高額で、ズッファ社からUFCを買い取った。 しかしMMAの歴史を振り返れば、その源には日本がある。大会としてUFCのあり方に大きなヒントを与えたPRIDEはもちろん、MMAという競技自体が日本発であるのはよく知られるところだ。
そこで本連載ではベテラン格闘技ライターであり、この4月までWOWOWで放送していた「UFC -究極格闘技-」で10年間解説を務めていた稲垣 收氏に、改めてUFCが如何にしてメジャー・スポーツとして今日の成功を築き上げたのかを語って頂く。
競技の骨組みとなるルール、選手の育成、ランキングはもちろん、大会運営やビジネス展開など「如何にして今日のUFCが出来上がったのか」そして、「なにが日本とは違ったのか?」を解き明かしていきたい。
(*1:WME-IMGは、クライアントにクリント・イーストウッドやマイケル・ベイ監督、ラッセル・クロウ、ナタリー・ポートマンらの映画界の大物や、錦織圭らトップ・スポーツ選手らを持つ老舗エージェンシー)
世界一の“総合格闘技”大会―― UFCとは何か?
The Root of UFC ―― The World Biggest MMA Event
第六回――初代ライトヘビー級王者フランクが連続防衛、髙阪が初参戦、ミレティッチ、ニュートン、ダンヘン、リデルも参戦。だが選手の日本への流出が続く
著●稲垣 收(フリー・ジャーナリスト/元WOWOW UFC解説者)
後に大統領選でオバマのライバルとなる有力な上院議員ジョン・マッケインらのバッシングを受け、「野蛮で危険な大会」というレッテルを貼られたUFC。
多くの州で大会開催を禁じられたため、南部の田舎町でドサ回り興行を続けながら、少しずつルールを改正し、健全な「スポーツ」として認められるべく努力を重ねてきた。
前回は、そのUFC初の米国領以外での大会として1997年12月に横浜アリーナで開催された日本大会について書いた。このUFCジャパン(UFC15.5とも呼ばれる)には桜庭和志が初参戦し、カーウソン・グレイシーの弟子のマーカス・“コナン”・シウヴェイラを破って“日本格闘界の救世主”と呼ばれた。
これは桜庭にとって唯一のUFC参戦となったが、その後はPRIDEを舞台にヘンゾやホイスなどグレイシー一族を次々と撃破し“グレイシー・ハンター”の称号を欲しいままにする。
皮肉なことだが、これ以降巻き起こるPRIDEを中心とした、日本における総合格闘技ブームは、このUFCジャパンが生み出したものと言えるかもしれない。桜庭が登場しなければ、高田がヒクソンに惨敗したショックから日本の格闘界が立ち上がる切っ掛けはなく、UFC自体がPRIDEの成功の影響を受けていることを考えると、あるいは総合格闘技の歴史全体が違うものなっていた可能性すらある。
また、初期UFCで活躍したケン・シャムロックの義弟であるフランク・シャムロックも、この日本大会でUFCデビューし、バルセロナ五輪レスリング金メダリストのケヴィン・ジャクソンにわずか16秒で秒殺一本勝ちして初代UFCライトヘビー級(当時はミドル級と呼ばれた)王者となった。
今回はそのUFCジャパンに続く、UFC16とUFC17を見ていこう。
特にUFC17からノー・ホールズ・バード(No Holds Barred=「何でもあり」。略称NHB)という俗称を改め、ミックスト・マーシャル・アーツ(Mixed Martial Arts=「ミックスした格闘技」→「総合格闘技」。略称MMA)という名称を公式に使うことにしたことにも注目だ。
「総合格闘家」となるためフランクが積んだ特訓とは?
UFCジャパンの3ヵ月後の1998年3月にルイジアナ州ニューオリンズで行われたUFC16では、ジャパンで初代ライトヘビー級王者となったフランク・シャムロックが初防衛戦を行った。
フランクは前回、五輪レスリング金メダリストのジャクソンと対戦するため、モーリス・スミスや元キックボクシング王者ハビアー・メンデス(後にアメリカン・キックボクシング・アカデミーを創設し、ケイン・ベラスケス、ダニエル・コーミエ、ルーク・ロックホールドらUFC王者を育てる)、“ジャクソンをレスリングで破った男”エリック・ドゥースをコーチに招いて猛特訓を積んだ。
初期UFCでは、ボクシングならボクシングだけ、空手なら空手だけ、レスリングならレスリングだけ、柔術なら柔術だけを練習した格闘家たちが、それぞれのジャンルの技術だけで「異種格闘技戦」的な戦いをしていたのだが、この頃になると、このフランクのように、さまざまなジャンルの一流の選手やコーチから指導を受けて練習をし、まさに「総合的な」戦いをする選手が生まれ始めてきていた。 フランクはまた、ブルース・リーが創始した格闘技ジークンドーの哲学も学び「水のようにあれ」というリーの哲学を実践しようと試みた。 ドゥースの強烈なタックルに逆らわず、流れる水のように倒され、そこから一瞬で腕を取って十字を極める。その練習を何百回も繰り返したのである。
「それほど猛特訓をしたのに、ジャクソンとの試合はたった16秒で終わってしまった」
とフランクは述懐する。
「だから俺は不完全燃焼だった。それで、すぐ次のUFC16で初防衛戦をすることにしたんだよ」
相手はロシアのイゴール・ジノヴィエフ。ロシアの軍隊格闘技であるサンボや柔道、キックボクシング、柔術をバックグラウンドとする選手で、総合格闘技ではカーウソン・グレイシーの弟子の柔術家マリオ・スペーヒーやエンセン井上に4試合連続で1ラウンド勝利し、フランクを破ったジョン・ローバーと引き分けた強豪だ。
ジノヴィエフは当時アメリカでUFCと並ぶ総合格闘技団体だった「エクストリーム・チャレンジ」の王者でもあった。したがって、これはUFC王者vsエクストリーム・チャレンジ王者の、“真の世界一を決める一戦”でもあった。
フランクはジノヴィエフ戦に備えるため、決戦の地ニューオリンズで、自腹でトレーニング・キャンプを張った。当時、総合格闘技の選手でそんなことをする者はほとんどいなかった。PRIDE1で高田延彦と戦ったヒクソン・グレイシーが、長野県の山中でキャンプを張ったくらいだろう。
「ジノヴィエフは強烈な打撃を持っていた」
とフランクは語った。
「それに柔道やサンボの技術も優れている。だからヤツを関節技で極めるのは、ほとんど不可能に近い。俺はヤツの弱点を探すため何度も試合映像を見た。そしてある時、気づいたんだ!」
ジノヴィエフは、相手が彼をテイクダウンしようとして組みつくと、相手の頭を掴む癖がある。
「そう、ヤツはいつもタックルに来た相手の頭を掴むんだ。“これだ! ここを突けば倒せる!”と思ったよ」
それからフランクは練習相手を募集した。
「グローブをはめてジムに行けば誰でも、フランク・シャムロックが殴らせてくれるぞ」
という噂を町じゅうに広めたのだ。これによってジムには、腕に自信のある荒くれ者たちが「UFC王者を殴ってやろう」と毎日大勢集まった。1度に50人もが行列する日もあった。 フランクは毎日彼らを相手に1時間のスパーリングをした。彼らのパンチをかいくぐり、組みつく特訓をしたのだ。これを20日間続けた。 そしてついに、決戦の日がやってきた。
決戦、そして衝撃の結末
試合開始直後、フランクは何発か蹴りを繰り出した。ジノヴィエフは左右のパンチを振るって前進する。これに対しフランクは、タックルでカウンターにいく。その瞬間、ジノヴィエフがフランクの頭を掴んだ。 これを待ち受けていたフランクは、ジノヴィエフを頭上高々と持ち上げるとジャンプし、自分と相手の二人分の体重をかけて、頭からマットに叩きつけた。 ジノヴィエフは失神し、レフェリーの“ビッグ・ジョン”・マッカーシーが試合を止めた。わずか22秒、戦慄の秒殺KO防衛だった。
当時のUFCは、マットが今よりもはるかに固かった。合板に薄いシートを張っただけで、ほとんどクッション性がなかったのだ。フランクはこれを知り尽くしていた。 叩きつけられたジノヴィエフは鎖骨を骨折し、頸椎も痛め、格闘家引退を余儀なくされた。
「俺は勝利の雄叫びを上げてオクタゴンの中を歩き回っていたけど、ジノヴィエフに大けがを負わせてしまったことで、内心すごく気分が悪かったよ」
この時のことをフランクは後に、そう語っている。
この試合後何年もたってから、IFLという都市対抗の総合格闘技大会で自分のチームを率いてコーチを務めたフランクは、やはりコーチを務めていたジノヴィエフと再会した。そして、大けがをさせて引退に追い込んだのは申し訳なかった、と謝ると、ジノヴィエフは大笑いした。
「何を言ってるんだ、フランク! あれは格闘技の試合だぜ! 格闘技じゃ、ああいうことも起こるさ!」
それを聞いてフランクは救われた思いだった。 ジノヴィエフ自身もまた、多くの相手を破壊してきた選手だ。人を破壊すること、あるいは破壊されること――それを覚悟したうえで金網の中に入る。それが、格闘技というビジネスなのだ。
UFCベルトを肩に掛けたフランク・シャムロック。(撮影筆者)
前田日明の弟子・髙阪剛がUFCデビューし“ハワイの怪人”キモを破る “TKシザース”も披露し、米の観客を沸かせる
このUFC16では、前田日明率いるリングスのファイター、髙阪剛が初参戦した。高橋義生、桜庭和志に続き、UWF系日本人ファイターとしては3人目のUFC参戦だ。
髙阪は中学から柔道を始め、専修大学でも柔道部で、大学卒業後も実業団で柔道を続けた後、リングス入りした。 リングスでは、前田やソ連内務省特殊部隊の格闘教官だったヴォルク・ハン、世界サンボ選手権優勝者アレクサンドル・ヒョードロフやニコライ・ズーエフらから関節技を学んだ。また、タイ人のコーチからムエタイの技術も学んだ。 当時のリングス道場は、そうした各ジャンルのスペシャリストであるコーチ陣に恵まれていた。新弟子たちは、前田の付き人や、道場や宿舎の掃除、食事当番、そして技のかけられ役などの種々の仕事をこなしつつ、食事と宿舎、少ないながらも給料も与えられていた。
ただし、特に関節技などは、現在のジムのように体系的に教えたりするというよりも、「やられながら、体で覚える」という方式だった。いわば職人の卵が先輩職人の技を、「盗む」ようにして覚えていったのだ。
(これはフランク・シャムロックが格闘技を学んだ義兄ケンの率いるライオンズ・デンでも同様だった。ライオンズ・デンは、ケンが参戦していた第2次UWFや藤原組、パンクラスの道場方式を参考にして作った道場だからだ。フランクはそこで先輩たちにやられながら、自分で毎日ノートをつけ、どんなふうにやられたのかを研究し、技を吸収して強くなっていった。)
髙阪は1995年にはエンセン井上の兄のイーゲンを破ってトーナメント・オブ・Jで優勝し、翌96年にはリングスでモーリス・スミスに一本勝ちし、この試合を機にモーリスと一緒に練習するようになった。モーリスに寝技を教え、モーリスからは打撃を学び、モーリスの盟友であるフランクとも一緒に練習した。
彼らと切磋琢磨し、UFCでの試合も経験しながら、スタンドでの打撃、タックル、関節技、そして寝ワザ状態での打撃、寝技でのポジションの切り返しなど、現代の総合格闘技にもつながる技術を進化させていったと言えるだろう。 さて、髙阪のUFC初参戦となったUFC16での相手は、ハワイ出身の“怪人”キモ。巨大な十字架を背負って入場するパフォーマンスでも知られる男で、身長191センチ、体重110キロの巨漢である。
だが、ただのキワモノ・ファイターではなく、UFC3でホイス・グレイシーと対戦し、敗れはしたものの、ホイスを消耗させて戦闘不能に陥らせ、トーナメント準決勝を棄権させた実力者だ。 ホイス戦後は“デンバーのケンカ屋”パトリック・スミスを2度破り、バンバン・ビガロ(新日本プロレスにも参戦した体重170キロのプロレスラー)に一本勝ちし、元UFCスーパーファイト王者ダン・スバーンとも引き分けている。
試合が始まると髙阪はタックルに行くが、キモはこれを防いで上になり、パンチを落とし、足関節まで狙う。足関節技といえば髙阪ら“UWF系ファイター”の代名詞だ。その髙阪に足関節技を仕掛けるとは、いい度胸である。 当然ながら髙阪は巧みに防御して立ち上がるが、キモはすぐにテイクダウンに成功し、またも上になった。 しかし髙阪はうまくキモの右腕を下からコントロールして殴らせない。 髙阪は下から足関節を狙うが、これは不発。 再びハーフガード・ポジションに戻したキモに、髙阪は下からボディへのパンチを入れ、またも足関節を狙う。必死で逃げたキモは、立ち上がるのに成功。 両者スタンド状態で、キモのパンチに合わせて髙阪はタックルに行くが、体格差もあって、またも上を奪われる。そして左の大きなパンチをもらう。だが、それ以降はうまく防御し、あまり打撃をもらわない。
開始から7分近くが過ぎたころ、キモはパスガードに成功し、マウント・ポジションに。 髙阪は何度もブリッジでキモのバランスを崩させたりしつつ、強いパンチをもらわずにしのぐ。 そして8分すぎ、下から自分の脚をキモの胴にかけて上下を入れ替えると、ルイジアナの観客は驚嘆の叫びをあげた。髙阪が初めて見せた技、いわゆる“TKシザース”だ。 髙阪は次の瞬間、キモの右足首を取ってアキレス腱固めに行く。キモは回転してなんとか脱出、両者が立ち上がった。
キモのパンチに髙阪のカウンターのジャブがヒットし、観客はまたも絶叫。 髙阪がローキックを連打すると、キモの動きはますます鈍くなる。髙阪の右フックが顔をかすめ、ローが何度もヒット。キモはスタミナが切れ、肩で息をしている。 パンチやローをさらにヒットさせ、軽快なステップを踏む髙阪に、キモはパンチを出すが、虚しく空を切る。
髙阪のパンチの連打がヒット。キモはローで脚を殺され、ますます髙阪のパンチを被弾。髙阪の左ストレートがヒットしたところで本戦終了。 3分間の延長に入ると、キモは打撃戦を嫌ってタックルに行くが、髙阪に潰されて立たれる。立った瞬間、髙阪はヒザ蹴りを叩き込む。キモはすぐまたタックルに行くが防がれ、髙阪はまたもヒザ蹴り! 髙阪の蹴りに合わせて3度目のタックルに行ったキモは、やっとテイクダウンに成功。そして金網際でマウント・ポジションに移行した。
しかし髙阪は下から鉄槌の連打を入れる。 キモは腕ひしぎ十字固めに行くが、髙阪はあっさり外し、上になってパンチを落とす。髙阪のパンチでキモは目尻から出血。髙阪の頭にしがみついてパンチを防ごうとするが、攻め手がない。 髙阪が左右のパンチを連打したところで、延長が終わった。キモの両目は腫れ上がっていた。
髙阪のセコンドについていたモーリス・スミスは、試合が終わった瞬間、
「TK! TK! TK!」
と叫んだ。
本戦・延長と合わせて15分を戦い抜き、判定3-0で髙阪の勝利。髙阪が“リングスの髙阪”から“世界のTK”へ生まれ変わった瞬間だった。UFCが運営する試合動画のサイト、UFC FIGHT PASSでは、この試合が「ファイト・オブ・ザ・ナイト」、つまり「大会ベスト・ファイト」に選ばれている。
1998年のUFC16でキモを破った髙阪は、その後、PRIDEやパンクラスにも参戦。2006年に引退したが、昨年末のRIZINで45歳で復帰、30キロ以上重いジェームズ・トンプソンをパンチでKOした。写真はトンプソン戦直後のもの。(撮影筆者)
パット・ミレティッチがウェルター級トーナメントで優勝
この大会では、ライト級(170ポンド=77キロ以下。現在のウェルター級)が新設され、トーナメントが行われた。 もともとUFCでは階級のない体重無差別の戦いが行われていたが、この連載の第4回で書いたようにUFC12からヘビー級(200ポンド=90.7キロ以上)とライト級(199ポンド=90.3キロ以下)の二階級に分けられた。
ライト級は、その後UFC14からミドル級と呼ばれるようになった。その後、UFCジャパン(=UFC15.5)でフランク・シャムロックが初代ミドル級王者になった。 そして、このUFC16でライト級が新設されたわけだ。
こうやって少しずつ階級を細分化し、よりスポーツライクにすることで「野蛮」というイメージを払しょくしようとしていたのだ。
98年の段階で、現在でいうヘビー級、ライトヘビー級、ウェルター級の3つに階級を分けていたことは、総合格闘界では非常に早い。当時のリングスやパンクラスも階級無差別の戦いだったし、97年に始まったPRIDEも、まだ階級分けがなかったからだ。
PRIDEで無差別級でなく、初代ヘビー級王者と初代ミドル級王者が誕生するのは、2001年11月のPRIDE17まで待たねばならない。(ちなみに初代ヘビー級王者はアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、初代ミドル級王者はヴァンダレイ・シウバ)
さて、このUFC16でのライト級(ウェルター級)トーナメントではパット・ミレティッチが、アトランタ五輪レスリング銀メダリストのタウンゼンド・サウンダーズと、クリス・ブレナンを破って優勝した。
ミレティッチは6歳からレスリングを始め、高校ではアメフトも経験。ジュニア・カレッジでもレスリングを続けるが、母が心臓病を患い、治療費捻出のために学校を辞めて総合格闘技を始めた選手だ。
レスリングだけでなく柔術やボクシング、キックボクシングの心得もあり、試合を重ねながら、それらの技術を総合格闘技向けにアレンジし、進化させていった。サブミッションでの一本勝ちも多く、KO勝ちもできるオールラウンダーだ。体重無差別で1日3試合も戦うワンデー・トーナメントで何度も優勝し、17勝1敗1分けの戦績を引っ提げて、今回UFCに参戦したのである。
決勝の相手のクリス・ブレナンは、UFC1を見てグレイシー柔術に惚れ込み、ホイス・グレイシーに入門した男だ。このUFC16でUFC初参戦するまで、総合戦績は4勝(4サブミッション)1分け。引き分けた相手がミレティッチだった(UFC16の4ヵ月前の97年11月の「エクストリーム・チャレンジ」)。
このUFC16のトーナメント決勝での再戦で、ミレティッチは9分1秒、変形肩固めでブレナンを破って優勝する。“ホイスの弟子の柔術家”ブレナンへの一本勝ちは勲章といえよう。
ミレティッチは後に、「チャンピオンズ・ファクトリー」ともいうべき総合ジム、ミレティッチ・マーシャルアーツ・センターを主宰し、ライト級のジェンズ・パルヴァー、ウェルター級のマット・ヒューズ、ヘビー級のティム・シルヴィアら多くのUFC王者を育てることになる。
UFC17からNHB(何でもあり)でなく MMA(総合格闘技)の名称を公式に広める
UFC16から2ヵ月後の1998年5月にアラバマ州の田舎町モービルで行われたUFC17では、大会当日のルール・ミーティングの際、UFCの経営陣が選手たちに、UFC4から解説者を務めていたロス五輪グレコローマン・レスリング100キロ超級の金メダリスト、ジェフ・ブラトニックをUFCの新コミッショナーとして紹介した。
ブラトニックは、それまで「ノー・ホールズ・バード」(No Holds Barred=「禁じ手なし、何でもあり」。略称NHB)とかケージ・ファイト(Cage Fight=「金網のファイト」)、あるいはポルトガル語で「ヴァーリ・トゥード」(Vale Tudo=何でもあり」)などと呼ばれていたUFCのような格闘技を「ミックスト・マーシャルアーツ」(Mixed Martial Arts=「ミックスした格闘技」→「総合格闘技」。略称MMA)と名付け、
「今後はこの名称を使ってくれ」
と選手やメディアに依頼した。これがMixed Martial Artsという語が公式に使われるようになった最初だと言われている。
英語でNo Holds Barredというと、まさに「何一つ禁じられたことがない」という語感であり、「どんなことをしても、かまわない」という感じに受け取られる。つまり、噛みつきだろうと、目つぶしだろうと、ひっかきだろうと、どんなことでもできる、まさに「酔っ払いやごろつきのケンカ」と思われてしまうのだ。実際、当時のアメリカの一般人がNHBと聞いて思い浮かべるイメージはそういうものだった。 Cage Fight というのも、「金網に閉じ込めて行なうケンカ」というイメージだ。
こうした野蛮なイメージを払しょくするためMixed Martial Artsという名称に競技の呼び名を定着させることで、アメリカの一般社会がUFCなどの総合格闘技大会に対して持つネガティブなイメージを一掃しようとしたのだ。
1995年4月、ホイス・グレイシーとケン・シャムロックが再戦したUFC5では、ペイ・パー・ビュー(PPV=イベントごとに視聴料を払う方式)契約件数は26万件に達していたが、その後、前述のマッケイン議員ら反対勢力の働きかけにより、大手ケーブルTVはUFCのPPVを行わなくなり、わずかに衛星TV局のいくつかがPPV放送するだけになっていた。そのため、UFCの大会運営は困難さを増し、ケーブルTV業界では「UFCは数年後に破産するだろう」と言われていたのだ。
UFC16でジノヴィエフを相手に秒殺初防衛したフランクは、UFC最大のスターとなっていた。UFC経営陣は、このフランクと新コミッショナーのブラトニックを、ケーブルTV業界の大手、TCIケーブルの社長であるレオ・ヒンドリーと会食させ、UFCへの理解を求めた。 ブラトニックはロス五輪金メダリストとして全米スポーツ界のセレブだったし、ヒンドリーはTV業界の大立者なので、彼らの影響力によって、行き詰った状況を打開させようとしたわけである。 だがこうした努力の効果が表れるまでには、まだ何年か時間が必要だった。
UFC17でフランクがジェレミー・ホーンを相手に2度目の防衛戦 初参戦のダンヘンとニュートンがライトヘビー級トーナメント出場
UFC17のメインはフランク・シャムロックのライトヘビー級(当時はミドル級と呼ばれた)王座の2度目の防衛戦だった。 同じライトヘビー級のトーナメントも行われ、日本では“ダンヘン”の愛称で親しまれているダン・ヘンダーソンとカーロス・ニュートンが初参戦した。当時ダンは27歳、ニュートンは21歳という若さである。
(ダンヘンは今年2016年10月7日に英マンチェスターで行なわれたUFC204のメインで、ミドル級王者マイケル・ビスピンに挑戦し、大激戦の末、判定で敗れて引退を表明したが、46歳まで、UFC出場前から数えると20年間も戦い続けてきたわけだ。)
ダンヘンは5歳からレスリングを始め、グレコローマン・レスリングで1992年のバルセロナ五輪と1996年のアトランタ五輪に出場した実績を持つ。バルセロナでは82キロ級で10位だった。 しかし生活は苦しく、
「レスリングだけでは家賃や電気代もロクに払えないから総合格闘技を始めたんだ」
と、インタビューした筆者に語った。 アメリカでは、五輪レスラーですら社会的地位はそれほど高くなく、生活も決して楽ではない。そのため、多くの一流レスリング選手が総合格闘技を目指すことになった。彼らは、いわば総合格闘技における「眠れる鉱脈」であった。 これが現在の総合格闘技界でアメリカ人選手が大活躍している1つの原因であり、彼らの活躍が、総合格闘技人気をアメリカで高める要因ともなるのだ。
話を戻そう。 ダンヘンは次の五輪までの生活費を稼ぐために、1997年6月にブラジル・オープンという大会に出場し、1人で2週間サンドバッグを殴る練習をした以外はレスリングの練習しかしたことがない状態でありながら、4人トーナメントで優勝した。
このUFC17が2度目の総合大会出場だ。
トーナメント初戦 “五輪レスラー”ダンヘンvs柔術王ゴエス
初戦でダンは、柔術ブラジル王者アラン・ゴエスと対戦。ゴエスはカーウソン・グレイシーの弟子で、この5ヵ月後にPRIDE4で桜庭と引き分ける強豪だ。
ゴエスはローキックを何発も入れ、右フックでダンをダウンさせるが、倒れたダンはすぐにヒール・ホールドを仕掛ける。ゴエスは回転してこれを外し、両者は立ち上がる。 ゴエスはローを入れてから組みついてヒザを入れ、テイクダウンを狙うが、ダンは逆に投げる。立ったゴエスはローを入れる。
組みついたゴエスは、引き込んで寝技に持ち込み、下からサブミッションを狙う。しかしダンが上からパンチやヒジを落とし、ゴエスは鼻から出血。 ゴエスは下からアームロックを狙うが、極まらず。ゴエスが再度アームロックを狙うがダンは腕を抜いて立ち上がる。
打撃を出し合うが、ゴエスは疲れ、肩で息をしている。ゴエスは自分から寝転んで寝ワザに誘うが、ダンはつきあわず。ダンは組みついてヒザ蹴り。 金網際でゴエスの左フックが入り、ダンがダウン! 倒れたダンの顔面にゴエスは蹴りを見舞うが、これは反則だ。UFC14から「グラウンド状態にある相手の頭部へのキック」は反則になったのだ。ゴエスはすぐに裸締めを仕掛けるが、レフェリーが割って入った。会場から大ブーイングが起こる。
スタンド状態から再開すると、ゴエスは左フックを入れて組みつく。しかしダンはテイクダウンを許さず、離れてパンチで打ち合う。ゴエスのローがヒット。しかしその後目立った攻撃はなく、本戦が終了。決着は延長戦にもつれ込んだ。
“レスラー拳”クリンチ・アッパー炸裂
3分間の延長が始まると、ダンはパンチを振るって前進し、左手でクリンチしながら右アッパーを入れた。ダンやチームメートのランディが得意とする“グレコローマン・レスラー拳”ともいうべきクリンチ・アッパーだ。ゴエスもローを入れるが、ダンは何発もクリンチ・アッパーを入れる。ゴエスの右のグローブが外れて中断するが、ゴエスは疲労を隠せない。
再開後、ダンはまたもクリンチ・アッパー。これを嫌ったゴエスは自ら倒れ、寝技に誘うがダンは応じず、レフェリーが立たせたところで延長終了。3-0の判定でダンが勝利し、決勝に進出した。 そして決勝でニュートンと対戦する。
“ドラゴンボール柔術”のニュートン
ニュートンは英領ヴァージン諸島出身で、カナダ育ち。4歳から空手を始め、その後柔道、柔術も学んだ。それらに合気道、ムエタイ、レスリングなどの要素も加え「ドラゴンボール柔術」を創始する。このネーミングからもわかるように鳥山明原作のマンガ&アニメの『ドラゴンボール』の大ファンで、勝利後には「カメハメ波」のポーズをして見せる。日本にも2年ほど住んで札幌の大学、大宮の高校の柔道部のコーチをしていた経歴を持ち、日本語も話せる大の日本通だ。
UFC17の半年前、1997年11月のVALE TUDO JAPAN ’97(ヴァーリトゥード・ジャパン97)で修斗ライトヘビー級王者エリック・パーソン(日本ではこう表記されるがスペルはPaulsonなので「ポールソン」が正しい)に腕ひしぎ十字固めで、わずか41秒で秒殺一本勝ちした。
UFC17のトーナメント初戦で、身長175センチのニュートンは、191センチのボブ・ジルストラップと対戦。体重でもニュートンが85キロに対し、ジルストラップは90キロ超で、5キロ以上重い。しかしニュートンは体格差をものともせず、開始直後に両脚タックルで倒し、すぐにマウント・ポジションを奪うと、右腕を掴んで腕十字の体勢に入る。ジルストラップも素早くこれに対応し、左のパンチを落とすが、ニュートンは三角締めに移行すると、ジルストラップはすぐにタップした。わずか54秒、見事な一本勝ちだった。
トーナメント決勝 ダンヘンvsニュートンの大激戦
ヘンダーソンとニュートンのトーナメント決勝。 ニュートンは右フックをヒットさせ、ダンはマットにヒザをつくが、そこから両脚タックルでニュートンを倒した。 ダンは上からボディにパンチを落とす。ニュートンは上下を入れ替えようとするが、ダンはこれを許さず、パンチやヒジを入れる。しかしニュートンがマウスピースを落としたため、レフェリーがブレイクしてマウスピースを入れなおした。
スタンドで再開すると、ニュートンはタックルで倒してサイド・ポジションを奪うが、ダンはすぐに立ち上がるのに成功。 ダンがパンチで前に出るが、組みついてバックを奪ったニュートンがテイクダウンに成功。しかしダンはすぐに立ち、ヒザ蹴りからクリンチ・アッパーやフックを連打。さらにニュートンの頭を掴み、ダンはヒザ蹴りを15発も連打!
ニュートンはこれを振りほどいてパンチを打つが、ダンはまたもクリンチしヒザ。ニュートンは自ら倒れて寝技に引き込むが、ダンは上からパンチやヒジを入れる。 やがてダンは立ち上がり、レフェリーがニュートンも立たせる。 ダンは初戦でゴエスと判定まで戦ったため疲れたのか、肩で息をしている。ニュートンのローと右フックが入り、さらにハイキックもヒット! ダンはバランスを崩して倒れる。追撃するニュートンにダンはタックルし、サイド・ポジションを奪う。 そこからニュートンはダンを両脚の間に入れ、ガードに戻すが、ダンはニュートンを持ち上げ、マットに叩きつけ上からパンチを落とす。ここで本戦が終わり、3分の延長にもつれこんだ。
延長戦が始まると、前に出てローを入れるニュートン。ダンは疲れが見える。ニュートンはミドルキック、左フックを出す。 ダンはパンチを振るって前に出るが、すぐに息が切れる。パンチを打ち合う両者。ニュートンは左ミドルキック。両者とも疲れが見える。
ニュートンが飛び出して、右フックを入れ、ダンはマットに一瞬手をつく。すぐに立ったダンに、パンチでニュートンは追撃。ダンもパンチを返し、ミドルキックを出すニュートンをダンがタックルで倒す。下からストレート・アームバーを狙うニュートン。しかし極まらず、ダンは上からパンチ。 残り10秒、ダンがパンチを入れて立ち上げると、試合終了のホーンが鳴った。
判定は2-1のスプリットで、ダンが勝利し優勝したが、解説席にいたフランク・シャムロックは「ニュートンの勝利だと思う」とコメントしていた。 この試合では悔し涙を飲んだニュートンだが、その後、フランクの見立て通り、大きな活躍を見せることになる。それについては、次回以降で触れたい。
フランク、解説者デビューも伏兵ホーンを見くびり大苦戦!
非常に興味深いことに、この大会に出場したフランクは、他の試合の解説をしている。これにはUFCの裏事情がある。
前述したように、この時期のUFCはマッケイン上院議員らのバッシングにより、タイム・ワーナー等の大手ケーブルテレビや他の地方局からも締め出され、ますます視聴者が減っていた。UFCの初代オーナー・ボブ・メロウィッツはこの状態をなんとか打開したいと必死だった。音楽業界出身の彼は、いかにパブリック・イメージを作り上げるかを重視し、フランクにUFCのスポークスマンを務め、「UFCの顔」的な存在になってもらいたがった。そこで、フランクにニューヨークで講演をさせて、総合格闘技がいかに素晴らしいスポーツであるか語ってもらったりした。また、新コミッショナーのブラトニックとともに、TCIケーブル社の社長とも会食させた。
そしてこのUFC17でも、単に防衛戦をするだけでなく、「解説者を務めてほしい」と頼んだのである。
フランクは、現役の王者であり、甘いマスクと、親しみを感じさせる声の持ち主だった。 その上、総合格闘技のさまざまな技術を、ライオンズ・デン時代に、先輩たちにやられながら克明にノートを取ることで身につけていったという過去を持つだけに、それぞれの技を「体で覚える」だけでなく「言語化」して理解していたので、解説もわかりやすく、非常にうまかったのだ。
そのためこの大会でのフランクは、まず自分の試合を戦い、その後でスーツに着替え、なにごともなかったかのように実況席から他の試合の解説をすることになったのだ。
これが決まったのが大会3週間前で、フランクは快く引き受けたが、
「解説する準備もあるし、試合後、ケガをしたら解説などできないから、防衛戦の相手はなるべく楽な相手にしてくれ」
と頼んだ。 しかしUFCが選んだのは、クセ者のジェレミー・ホーンだった。
フランクは22歳のホーンの写真を見て、「ひ弱そうな小僧だ」とタカをくくり、ほとんど練習せず、むしろ解説の練習に力を入れて大会に臨んだ。 そして手痛いレッスンを与えられることになる。挑戦者ホーンはパット・ミレティッチの弟子で、寝技の名手だったのだ。
ホーンは1996年3月に総合デビューし、2年間になんと14試合もする鉄人ぶりを発揮し、9勝(7サブミッション)2敗3分けの戦績をひっさげ、フランクの王座に挑戦することになった。3つの引き分けのうちの1つは、元UFCスーパーファイト王者ダン・スバーンだ。自分より20キロ以上も重いヘビー級のスバーンと20分間戦い抜いて引き分けたのである。
筆者はホーンにもインタビューしたことがあるが、とても気さくな男で、背は高いものの、パッと見た感じはおとなしそうで、とてもプロ格闘家には見えない。
ミレティッチに弟子入りするまでは、兄弟や友達とUFCや柔術のビデオを見ながら自分たちで技の練習をして強くなった“セルフ・メイド”ファイターだ。 UFCが始まってから人気が高まるようになる前は、アメリカでも総合格闘技のジムだけでなく、柔術の道場も少なく、総合格闘技を学びたくても自分の住む街にそうしたジムがないというのが普通だったから、ホーンのようにビデオなどを見て仲間と技を研究して強くなった、という選手はけっこういたのである。
フランクvs試合巧者ホーン
試合が始まると、フランクは何度かローを繰り出すが、右の前蹴りをキャッチされ、テイクダウンされる。 フランクはサイド・ポジションを奪われるが、すぐに脱出。ホーンはノースサウス・ポジション(上四方のような形)を取る。 フランクは金網を蹴って立とうとするが、ならず。ホーンはフランクの背中をヒザで蹴る。
再びサイドに移行したホーンはネック・クランクを狙う。フランクはブリッジで返そうとするが、ホーンは許さず、マウント・ポジションを奪取。しかしフランクはタイミングを見計らって横に回転して逃れ、アキレス腱固めをしかける。だがホーンは脱出し、再び上に。 フランクは下からオープン・ガードで両脚の間にホーンを置き、下からパンチやヒジを入れ続ける。
やがてレフェリーがブレイクしてスタンドで再開。
ホーンがローを入れ、フランクはハイを出す。そしてホーンは組みついてテイクダウンし、またもマウントを奪うことに成功。 フランクはブリッジして上下を入れ替え、ホーンは両脚でフランクの胴を挟み、クローズド・ガードを取る。フランクはパンチを落とす。ホーンは密着し、時にヒジ打ちを入れる。 フランクはアキレス腱固めをしかけるが、ホーンは脱出に成功し、立ち上がる。 ホーンは両脚タックルに行き、フランクはギロチン・チョークを狙う。首を掴んだまま上を取ったフランクだが、ギロチンは極められず。ホーンは下からヒジ打ちを入れる。 フランクはまたもアキレスを狙うが、ならず。 ホーンの首を左手で掴み、右のパンチを入れる。そこから再び足関節を狙うが、これも極まらず。
スタンドに戻り、両者のローが交錯。フランクのパンチに、ホーンが片脚タックル。フランクは上体をかぶせてガブリながらパンチ。 しかし、ホーンはタックルに成功し、上に。だがフランクはそこからアームロック狙い。 だがホーンはこれを外し、またもマウントを奪取! しかし、そこからホーンは攻めきれず、膠着してスタンドで再開。
フランクに疲れが見える。 ホーンのハイキックを、フランクは片腕で防御。お見合い状態が続いた後、再びホーンがタックルへ。フランクは防御しつつ、パンチを入れるが、ホーンは上になり、サイド・ポジションを奪う。そしてフランクにヒザ蹴りを入れる。 ここで15分の本戦が終了。勝負は延長にもつれ込んだ。
ホーンのセコンドのミレティッチは、
「両手のガードを上げて顎を引け。もし疲れてるとしても、絶対に顔に出すな!」
とアドバイス。
延長でサブミッション決着
3分間の延長戦が始まると、ホーンは左ジャブを出し、ローを入れる。そして両脚タックルへ。フランクはこれを防御しつつ、ヒジ打ちを背中に入れる。 金網際でバックについたホーンにフランクはヒジ打ち。しかし、ホーンは後ろに倒れるようにしてグラウンドに引きずり込む。
だがその瞬間、フランクはホーンの左足首を掴み、ヒザ十字固めを極めた! ホーンはたまらずタップし、試合終了。
フランクは苦しみながらも、延長1分28秒、2度目の防衛に成功した。 観客は立ち上がって両者を称え、特に若きホーンの大健闘に「ホーン! ホーン! ホーン!」と合唱して称賛した。
大激戦に勝利したフランクに、現在もUFCの解説と試合後の選手インタビューを務めるジョー・ローガンが、インタビューした。
――王者フランク、おめでとうございます! 接戦でしたね? 「ああ。彼は若くてハングリーだったよ」 ――彼の試合のビデオは見ていた? 「見たよ。でもビデオとは全然違ったね」 ――彼はあなたの蹴りを掴んでテイクダウンしましたね。あれで作戦が狂った? 「いや、そうじゃない。彼は予想したより、かなり打撃がうまい選手だった。そして俺は、ちょっとコンディションがよくなかった。彼は若くてハングリーで強敵だったよ」
相手を見くびって練習を怠ったために苦戦したフランクだが、逆にそのせいで、非常に見ごたえのある大激戦となった。苦戦はしたものの、フランクはなんとか防衛に成功し、大きなケガもなく、解説席につくことができたのであった。
後の“全米格闘界最大のスター”リデルが初参戦
この大会には、後にUFCライトヘビー級王者になって何度も防衛を重ね“アメリカ格闘界最大のスター”になるチャック・リデルも初参戦し、ノエ・ヘルナンデスに判定勝利した。リデルはこれがUFCのみならず、総合格闘技デビュー戦だった。
モヒカン刈りに口髭がトレードマークのリデルは、12歳から空手を始めた。側頭部に漢字で彫られた「幸栄館」というタトゥーは、彼が学んだ空手の流派名である。 高校時代にはアメリカン・フットボールを、大学時代にはレスリングを経験し、その後ジョン・ハックルマン(*2)に弟子入りして打撃をさらに磨き、アマチュア・キックボクシングで20勝(16KO)2敗の戦績を収めた。総合デビュー前には、柔術の名手ジョン・ルイスから寝技の指導も受けている。 得意技はオーバーハンド・ライト・パンチだ。
(*2 ハックルマンは怪鳥ベニー・ユキーデらとともに活躍したキックボクサーで、トレーナーになってからは、リデルのほか、現UFCライトヘビー級のグローヴァー・テイシェイラや「ジ・アルティメット・ファイター」のシーズン11で優勝したコート・マッギーらを指導している。) 筆者はリデルにインタビューした際、昔、しょっちゅうケンカをしていたという話を聞いた。
「ある時、十人以上を相手に大乱闘になり、車の向こう側で弟が殴られていたので、車を飛び越えて飛び蹴りを食らわしてやったぜ!」
と豪快に笑っていたのが印象的だった。
アボットが“ヒクソンのライバル”ウゴを秒殺KO
この大会には“ハンティントン・ビーチのケンカ屋”タンク・アボットも出場し、ブラジルの強豪ウゴ・デュアルチと対戦。 ウゴはブラジルで柔術家たちと敵対する勢力だったルタ・リブリーの選手で、ヒクソン・グレイシーと1988年にビーチでケンカをしたことでも有名な男だ。今回UFCに参戦するまでに、東京の駒沢公園体育館で行われたUVFでデュセル・ベルト(*3)を破った他、そこまで総合5戦全勝だった。アボット戦後はPRIDE4でマーク・ケアーと対戦しTKO負けしている。
試合開始後、ウゴはアボットをタックルで倒し、バックを奪い、アームロックを狙うが、腕を抜いたアボットは、逆にハーフ・バックを奪い返し、後ろから強烈な右パンチを連打、開始から43秒でTKOした。
(*3 デュセル・ベルト:Diusel BertoはUFC10にも出場してゲザ・カルマンにKO負けした選手で、後のボクシング世界王者《IBF世界ウェルター級》アンドレ・ベルトの父である。プロフェッショナル・レスリング藤原組やバトラーツにも「デュセル・バット」の名で参戦。息子のアンドレは2015年にフロイド・メイウェザー・ジュニアの引退試合の相手を務め、判定で敗れた)
前ヘビー級王者コールマン、まさかのKO負け
UFC17の10ヵ月前のUFC14で、モーリス・スミスに敗れてヘビー級王座から陥落したマーク・コールマンは、その後ヒザの負傷で長期欠場していたが、今大会で復帰した。 相手はケン・シャムロックの弟子で22歳のピート・ウィリアムス。UFC初参戦だが、パンクラスで國奥麒麟樹真(くにおく きうま)や渋谷修身に勝利し、リングスではヨープ・カステルを破るなど、そこまで7勝1敗の戦績をあげている選手だ。
開始早々、タックルで倒したコールマンは上になって攻めるが、ウィリアムスは下からサブミッションを狙う。5分半が過ぎたころ、レフェリーがブレイクをかけ、スタンドで再開。コールマンは右ストレートを入れる。ウィリアムスもパンチを出すが、コールマンの右がまたヒット。ウィリアムスは何度もローキックを入れる。コールマンはローをカットできない。
8分過ぎ、コールマンはタックルで倒し、ウィリアムスはなんとか立つが、バックを取ったコールマンはパンチを数発入れる。 再度テイクダウンに成功して上から攻めるコールマン。ここで本戦12分が終了。
3分間の延長に入ると、ウィリアムスは強烈なローを入れ、右ストレートとアッパーを連打する。コールマンは被弾しつつ、タックルに行くがウィリアムスは防御し、立ち上がった直後、コールマンの顔面にヒザを叩き込む。 さらにパンチを入れ、ダメージを受けて動きが鈍ったコールマンの顔面に右のハイキックを叩き込み、KOした。
元王者コールマンが22歳の若者にKO負けしたのは衝撃だった。この試合は後に名勝負として、「UFCの名誉の殿堂」(UFC Hall of Fame)入りしている。
ウィリアムスは、ライオンズ・デンでのフランクらとの練習と、パンクラスで試合経験を積むことで、オールラウンドな選手に成長してきていたのに対し、コールマンはまだレスリング・ベースの「タックルで倒してパウンドで勝つ」というだけの戦法から脱却できず、打撃に対する防御が甘かったことも、この結果を招いた原因だろう。
この頃から、総合格闘技のトップレベルでは、一つのジャンルの技術だけで生き残っていくのは困難になってきていたのだ。コールマンは、打撃に対する防御の甘さを、前回のモーリス・スミス戦でも露呈していた。
UFC17のトーナメント優勝後、ダンヘンは日本のリングスへ
このUFC17のライトヘビー級トーナメントで優勝したダン・ヘンダーソンは、王者フランクへの挑戦が噂されていたが、UFCに継続参戦せず日本のリングスへの参戦を決めた。 当時、彼は練習仲間のランディ・クートゥアとともに「リアル・アメリカン・レスラーズ」(rAw)に所属していたが、ランディも97年12月のUFCジャパンでモーリス・スミスを破ってヘビー級王座を奪取していながら、防衛戦をせず、日本で行われたVale Tudo Japan 1998(ヴァーリトゥード・ジャパン98。1998年10月に東京ベイNKホールで開催)に参戦した。このためUFCヘビー級王座は剥奪された。
(この「ヴァリ・ジャパ」でランディはエンセン井上と対戦し、開始直後にタックルでテイクダウンに成功するが、エンセンが下から仕掛けた腕ひしぎ十字固めの餌食となり、1分39秒で敗れた。)
ヴァリ・ジャパ98の後もランディはUFCへは戻らず日本での試合を続ける。1999年3月から前田日明率いるリングスに参戦したのだ。そしてダンヘンも99年10月からリングスに参戦することになる。
当時リングスは91年の旗揚げ以来WOWOWが放送しており、毎年WOWOWから巨額の放映権料が入っていた。これによって、PPV売り上げも落ちて経営状態が厳しくなっていたUFCより高額なファイトマネーを選手たちに提示できたのだ。
当時のUFCのファイトマネーについては、ライトヘビー級王者フランクがUFC16でジノヴィエフを相手にした初防衛戦について
「俺は3万ドルもらった。それなりの額だが、それで引退して暮らしていけるほどの額ではない」
と語っている。 当時のレートで約385万円。ライトヘビー級王者フランクにしてこの額だから、参戦したばかりのダンヘンらのファイトマネーは推して知るべしだ。
リングスでは、99年2月に創始者であり同団体のエースだった前田が現役を引退したこともあり、新機軸を打ち出す必要があった。その一つがUFCと同様のオープン・フィンガー・グローブを採用してのKOK(キング・オブ・キングス)トーナメント開催だった。 それまでのリングスでは頭部・顔面への拳による打撃は認められず、手を開いた状態での掌底打ちのみがOKだったが(ボディ打ちは拳を握っても可)、このKOKルールではオープン・フィンガー・グローブをつけることにより、拳での打撃が許された。
ただしグラウンドでの頭部・顔面への打撃は禁止だった。それは、前田が「グラウンド状態で相手の顔面を殴るというのは日本のファンには野蛮に映るだろう」と判断したためだ。
「倒れている相手を殴るのは野蛮だ」
というのは、UFCが始まった時にも言われたことだ。
実際、モーリス・スミスも当初は、UFCでのグラウンドでのパンチを批判していたし、マッケイン上院議員らにUFCがバッシングされた「野蛮さ」の中には、この「倒れている相手を殴る」ということも含まれていた。
その意味で、前田がグラウンドでの頭部・顔面なしのパンチのKOKルールを考え出したのはリーズナブルなことだった。場合によっては、このルールの方が、世界のスタンダードとなっていたかもしれない。(実際、今でもアマチュア修斗では、グラウンドでの打撃は反則である。) 99年10月から行われた第1回KOKトーナメントには、それまでリングスを支えてきたリングス・ジャパン、リングス・ロシア、リングス・オランダ勢に加えて、ブラジルからはヘンゾ・グレイシー、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、柔術世界王者カステロ・ブランコ、レスリング南米王者レナート・ババル、アメリカからは元UFCヘビー級王者モーリス・スミス、ダンヘン、ジェレミー・ホーン、ブラッド・コーラーらが参戦し「世界最強の男はリングスが決める」というキャッチフレーズにふさわしい国際色豊かなトーナメントとなった。
元ソ連内務省特殊部隊の格闘教官だったヴォルク・ハンは、リングス・ロシアのエースとして活躍し、髙阪ら日本人ファイターに関節技を中心としたソ連の格闘技「サンボ」の技術を伝えた。ハンは2000年のリングスKOKトーナメントでノゲイラと激闘を繰り広げ、39度の高熱があるにもかかわらずノゲイラに関節技を極めさせなかった。その後は、“皇帝”ヒョードルらも指導。引退後はビジネスマンとして活躍している。(撮影筆者)
これほど豪華な選手が集まったのには、優勝賞金が20万ドル(約2300万円)と高額だったことも挙げられよう。それまでの総合格闘技の試合で、これほど高額の賞金が提示されたトーナメントはなかった。前述のフランクが防衛戦でもらった3万ドルと比べても、大きな差がある。
そして、リングスがそれまで築いてきたオランダやロシアとのネットワークに加えて、アメリカ、ブラジルともパイプをつないだことも大きい。前田自身も積極的に海外に飛んで、現地の選手やマネージャーたちとコンタクトを取ってきたのだ。 この第1回KOKトーナメントでは、ダンヘンがグルジア(現ジョージア)のゴキテゼ・バクーリ、金原弘光、オランダのギルバート・アイブル、ノゲイラ、ババルを破って第1回KOKトーナメントの優勝者となった。そして優勝賞金20万ドルを獲得したのだ。 この大会では柔術世界王者ブランコに、リングス・ロシアのサンビスト、アンドレイ・コピィロフがヒザ十字固めにより、わずか16秒で勝利するという“事件”もあった。また、前田引退後リングスの新エースとみなされていた田村潔司は、ヘンゾ・グレイシーに判定勝ちし、“グレイシー越え”を果たすが、ヘビー級のババルに準決勝で判定で敗れている。
翌2000年のトーナメントにはダンヘンの代わりにチームメートのランディが参戦するが、アリスター・オーフレイムの兄のヴァレンタインにギロチン・チョークで敗れた。優勝はノゲイラだった。
当時のリングスで、ダンヘン、ランディ、ノゲイラ、アリスターら、その後PRIDEやUFCで王者となって大活躍する選手が参戦していたのは非常に興味深いことだ。
この時期の日本の格闘界はTV局のバックアップもあって、立ち技のK-1、総合のリングス等が大会場での大会を頻繁に開催していた。 そして97年に高田延彦vsヒクソン・グレイシーをメインとして始まったPRIDEも、UFCジャパンでカーウソン・グレイシーの弟子のマーカス・“コナン”・シウヴェイラを破った桜庭和志が97年12月のPRIDE2から参戦し、98年6月のPRIDE3では、1ヵ月前のUFC17でダンヘンと激闘を繰り広げたばかりのカーロス・ニュートンに一本勝ちし、その後もブラジル人ファイターを次々に撃破して注目を集め、徐々にPRIDE人気も高まりつつあった。
初のブラジル大会開催も、前大会から5ヵ月の空白期間
さて、話をUFCに戻そう。 98年5月のUFC17の次のUFCの大会は同年10月、ブラジルのサンパウロで行われたUFCブラジル(UFC17.5)だ。
前大会から5ヵ月も間が空いたうえ、米国での開催ではなかった。この頃のUFCは、ほぼ2、3ヵ月に1度のペースで大会を開いていたが、ここで5ヵ月も間が空いてしまったのは、やはり経営の苦しさによるものだろう。
この大会は、UFCにとって初のブラジル大会だった。 メインではフランクが、かつて97年1月にハワイの「スーパー・ブロウル」で対戦して判定で敗れたジョン・ローバーと再戦。UFC16でオクタゴン・デビューした髙阪は、コールマンをKOしたウィリアムスと激突。そしてこのブラジル大会では、後の“PRIDEミドル級絶対王者”ヴァンダレイ・シウバも初参戦し、天才・ヴィトー・ベウフォートと対戦する。
また後に「チャンピオン製造工場」と呼ばれるミレティッチ軍団を率いることになるパット・ミレティッチも初代UFCライト級(現ウェルター級)王座決定戦で、マイキー・バーネットと対戦する。
この大会については、次回詳しく見ていきたい。
(第六回目 了)
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--Profile--
UFC190の生中継後、WOWOWのスタジオにて高阪剛選手と。
稲垣 收(Shu Inagaki)
慶応大学仏文科卒。月刊『イングリッシュ・ジャーナル』副編集長を経て、1989年よりフリー・ジャーナリスト、翻訳家。ソ連クーデターやユーゴ内戦など激変地を取材し、週刊誌・新聞に執筆。グルジア(現ジョージア)内戦などのTVドキュメンタリーも制作。1990年頃からキックボクシングをはじめ、格闘技取材も開始。空手や合気道、総合格闘技、ボクシングも経験。ゴング格闘技、格闘技通信、Kamiproなど専門誌やヤングジャンプ、週刊プレイボーイ等に執筆。UFCは第1回から取材し、ホイス・ グレイシーやシャムロック兄弟、GSPらUFC歴代王者や名選手を取材。また、ヒクソン・グレイシーやヒョードル、ピーター・アーツなどPRIDE、K-1、リングスの選手にも何度もインタビュー。井岡一翔らボクサーも取材。
【TV】
WOWOWでリングスのゲスト・コメンテーター、リポーターを務めた後、2004年より、WOWOWのUFC放送でレギュラー解説者。また、マイク・タイソン特番、オスカー・デ・ラ・ホーヤ特番等の字幕翻訳も。『UFC登竜門TUF』では、シーズン9~18にかけて10シーズン100話以上の吹き替え翻訳の監修も務めた。
【編著書】
『極真ヘビー級世界王者フィリオのすべて』(アスペクト)
『稲垣收の闘魂イングリッシュ』(Jリサーチ出版)
『男と女のLOVE×LOVE英会話』(Jリサーチ出版)
『闘う英語』(エクスナレッジ)
【訳書】
『KGB格闘マニュアル』(並木書房)
『アウト・オブ・USSR』(小学館。『空手バカ一代』の登場人物“NYの顔役クレイジー・ジャック”のモデル、 ジャック・サンダレスクの自伝))