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書の身体 書は身体 第十回 「閑話休題 年賀状」

止め、はね、はらい。そのひとつひとつに書き手の身体と心が見える書の世界。しかし、いつしか書は、お習字にすり替わり、美文字を競う「手書きのワープロ」と化してしまった。下手だっていいじゃないか!書家・小熊廣美氏が語る「自分だけの字」を獲得するための、身体から入る書道入門。

「お習字、好きじゃなかった」「お習字、やってこなかった」

「書はもっと違うものだろう」

と気になる方のための、「今から」でいい、身体で考える大人の書道入門!

書の身体、書は身体

第十回「閑話休題 年賀状」

文●小熊廣美

『書の身体 書は身体』タイトル

年賀状は一年に一度の稽古?

 書はただの芸事や芸術でもなく、文字を拠り所にしながらも、身体性をともなって心とつながってなる、どなたにも備わっている感性の所作だと思うのですが、今回は、書の身体と難しく構えることなく、実際の書の現場がみえてくる年賀状の現在を見ていきましょう。※もう既に準備済み、送付済みという方も多いと思いますがご容赦を。その際は是非、来年への糧にして頂ければと思います。

あなたは、年賀状を出しますか?

 出さない人もいますよね。

「面倒だけど、まだまだ出す習慣が一般的なので、しかたなく……。」 「メールの方が今時で手軽だし……。」

 とか、年賀状ひとつでも、人それぞれですね。

 私自身も、当たり前に一点一点手書きした相当前の学生時代から、筆文字を取り込んで印刷したりした時代もあります。それどころか、相手から年賀状を頂いても出さない年が続いたりとか、さまざまです。

 毎年10月初旬頃から、各社競って店頭に並ぶ、収録されているデザインやデザイン文字をパソコンに取り込んで作る年賀状ソフトの、筆文字の仕事も私もしばらくやっていました。  その頃は、その年の5月か6月頃に、本来であれば12月も押しせまってから書く年賀状を作成させられるのです。実際に暮れになると、他の仕事も入って忙しく、自分自身の年賀状は気が焦っていて、結局書きも返事もせずしないこともありました。また、どこか、年賀状に対して、虚礼と思ったり、その存在に迷いを覚えていた頃が私自身としてはありました。

 そんな安定しない私の年賀状に対する姿勢でしたが、近年は、枚数も限られていますので、遅くとも早くとも、出す。筆文字を取り込んで印刷することもやめて、表も裏も手書きする。そんな気持ちが強くなりました。

 書家だから当然!?

 そうかもしれません。書家は字が上手いから、いいじゃないか。といわれそうですが、習っているから習っていない人よりは上手いかもしれません。でも思ったようにはなかなか私も書けていないので、それを反故にすることなく人様にさらすというのは、恥をかきながらの稽古にも思えます。ただ、一枚の年賀状を手で書いている時間は、相手を思う幸せな時間でもあります。相手には伝わらなくても相手を思うことは悪い事じゃない。イマドキではないだけだと思います。

 今までの私みたいな年賀状の付き合い方があるかと思えば、一度年賀状を出したからには、毎年欠かさず年賀状を送ってくる人は、ブレが無く感心します。文面も決まり切って、印刷デザインも同じ。ここまでくるとこれも逆の意味で達人だと思います。長年会っていない友人との年老いてからの年賀状の交換は「生き死にの確認なんだよ」とポツリ話された方もいました。

 親しいから年賀状を出すわけじゃない、親しくなくても一年に一度の挨拶を大切にする方もいる。同じようで同じでないのが年賀状を取り巻く人生模様であるようです。

そもそも年賀状って、どうして生まれた?

 もともとは、新年になって、年始の挨拶に伺う回礼を始まりとして、その略式として、明治の中頃から、名刺を封筒に入れて送る風習が起こり、明治以降の西洋のカードを模しての「葉書き」に書いてなる挨拶となり、戦後になって、お年玉懸賞付きの年賀はがきの発売が、年賀状を書くことを国民的行事にしていったようです。

 逆に、急速に年始の回礼は衰退し、芸事の師弟や仕事の上司関係などに残るほどでしょうか。

 紅白歌合戦も、家族みんなでコタツに入り、みかんを食べながら見る国民的行事でなくなって、裏番組で大きな格闘技イベントを見るのもよし、テレビ局の威信をかけた年末時代劇を見るもよし、カウントダウンコンサートへ出かけたり、今ではネットもあり、「何しているか勝手でしょ」という時代になりました。

 基準がなくなって、何でもありの時代になったなかで、良き日本を思い出し、もう一度そんな時代をとの願いがディスカバージャパン的である今年の「嵐」5人組を使っての“年賀状を出そう”コマーシャルにつながっていそうです。

 出しても出さなくてもいい年賀状ながら、ネット環境の普及により、「やあ」「ハーイ」というほどにメールで新年のあいさつが交わされることも年々増えてきているのでしょう。

 従来の郵便を使っての年賀状も、冒頭に登場した年賀状ソフトなどを使って印刷し、住所面も尚更、パソコンに記憶させたデータを使って印刷して、従来の方法の踏襲は、投函する時のみにその名残が見られることでしょうか。

 日本郵便の年賀状販売も印刷特性がいいインクジェット用はがきの販売の方が普通紙より多い※と聞き、いよいよ手書き派は少なくなっているようですが、その一方で、従来の手書き用お年玉付き年賀はがきを買って、手書きや手作り版画など従来型の年賀状を愛する方々がいるわけです。

 そこで本連載の読者諸氏の皆さんに向かって、今年はズバリ、

筆で一枚一枚手書きする年賀状を出そうではありませんか!

 と孤軍奮闘、手ごたえまったくないままに自分自身にエールをおくります。

普通紙3億4,688万枚に対してインクジェット用は10億8,538万枚と既に三倍以上の差があります。ちなみに写真用は7,911万枚だそうです。

 まあ、実のところ暮れが近づいて、素人さんが多ければ多いほど、書の教室で年賀状を書く講座というのは、安易ながら定番です。

 私の教室でも、「年賀状を書く」を毎年どこかでやっています。  でも、それだけ上手く書けないですし、十二支が飽きさせてくれないのかもしれません。  別に上手く書かなくてもいいのですが、書のなかにおいても手紙やはがきを書くことは、今の方々にとっては結構気にいったものが書けない方が多いのではないでしょうか。 今どきの書家も私も含めてまともにはがきが書けない人は多いようのではないでしょうか。

 踏み込んで更にいうなら、官製の年賀状などの洋紙ハガキは、ペン書きには向いていますが、和紙製に比べて筆文字には向いているとはいえないのです。でも筆を敢えて使うのは、筆の自在性において、それでも心のうちを表す簡素な表現手段に変わりはないからです。

 ならば、素人さんは存分にまともに書けなくたって当たり前だし、それを素敵にみせればいいではないかと思うのです。

具体的に年賀状を書いていきましょう。

 手書きで一枚一枚書くと、相手を想う時間があります。印刷で流れて出てくるのとは違います。

賀詞を書く

  • 賀正(正月を賀す)

  • 迎春(春を迎えた)

  • 頌春(春をたたえる)

 という定番は、同僚・目下へ。上司や目上の方には、謹賀新年など、

「謹んで……」

 など敬意を表し、「うやうやしい態度を表すのがよい」などと年賀状ソフトなどの付録ページに書かれてあるのをよく見かけます。

 和語の挨拶ならば、たしかに「あけましておめでとう」は確かに目上には失礼な感じで「~ございます」を入れておきたくなります。でも「新年のお慶びを申し上げます」なら「つつしんで~」がなくてもいけそうです。

 まして漢語ならば「賀正」でも「正月を賀す」だけでなく「お正月を賀し申しあげます」や「迎春」にしても「春を迎えました」や、もっと「春を迎えておめでたいです」まで受け手は読みこめるのではないでしょうか。たとえば「迎春」などは五経の一『礼記』にもある伝統的な言葉でもあります。

 ならば上司にも「賀正」「迎春」でいけるはずです。頭のかたい上司には「謹んで……」が必要なのかもしれませんが。書きぶりによって、それを確実にするものが手書きであり、さらにいえばやっぱり筆文字です。

 手書きは、言外の言葉でいっぱい挨拶をします。

「賀正 丁酉元旦」  ※丁酉は、2019年の干支

「迎春 2019年元旦」

 だけだって、「新年おめでとうございます。今年も張り切って生き生きいきましょう。」といっているように思えます。

「右」 清冽な「賀正」で、新年の清新な気分を伝える。「左」 下手でもいい。思いきり書けば、なる。まずは、ゆっくり書けばいい。

 来年の干支(えと)は酉、とり年です。もともと「酉」は酒樽の象形です。さんずいをつけると「酒」になりますね。十二支は紀元前のとっくの昔からあるのですが、昔は文字が分かるのは一部の人だけ。わかりやすく身近な動物を中心に十二支の当て字としたそうです。

 「酉」は身近な「鶏」を当て字として、「とり」年となり、とりは拡大解釈されて、鷲でも鷹でもトンビでも、メジロでも雀でも、いいようになったようです。

 また「鳥」は鳥の象形からなる字ですが、「隹(ふるとり)」の字も鳥の象形からなる文字です。

 賀詞と並んで年賀状に書かれるおめでたい言葉など気になる言葉のなかに「瑞気集門(瑞々しい気が門(家)に宿り集まる)」があります。ここの「集」のなかに「隹」を見つけて、とり年には率先して使う言葉だと私は思ったりするわけです。「集」の旧字は隹を一つではなく三つ書いたのです。三つは沢山です。木に鳥が沢山集まっているというのが昭和二十一年の当用漢字制定にともない、煩雑さを嫌われて「隹」一つの「集」となりました。

 そんなわけで「瑞気集門」を本連載では、今回のとり年の大事な言葉として、皆さんにお薦めしたいと思います。

 この言葉は、「賀正」「謹賀新年」などと違って、直接、新年を祝う賀詞ではないわけですが、「笑門来福」などと同じように、使い方にによっては賀詞と同じような扱いになったりしてもいいようです。

 左は、「隹」三つの旧字の「集」。ゆっくり思いきって書いて、下手を超越したい。

 柔らかい印象の言葉があるように、柔らかい印象の文字となるのが、和語ですね。 「あけましておめでとうございます」「つつしんで新年のお慶びをもうしあげます」などですね。

「右」 流れるように大きさの変化もつけて「つつしんで新年のおよろこびを申しあげます」と伝統的に。 「左」 いつものペン書きのようなつもりで。右回転、左回転の動きを組み合わせるだけで、上手く書く意識はなし。

 添文として、「皆さまのご健勝をお祈り申し上げます」やら「今年もよろしくお願いいたします」などなどあります。書いてももちろんいいのですが、書かなくても、そんな気分を書かずに伝えるのも、筆文字の得意とするところです。

印刷は多弁になりがち。多弁にならないと伝わりにくいのです。

 私の北京時代に知り合った女子大生が静岡の方で、年賀状のやり取りをしていて、結婚してからはご主人との連名でご主人主導の年賀状をいただくのですが、細かい字で横書きでびっしりつまらない冗談が永遠と書かれているのですが、2,3年は読んだのですが、そのうち、いただいてから返す年賀状に、わたしは「つまらん」と書き、そのあとはもう読まず「よまん」と書き、最近はそれさえも書かずに読まずに済ませる年賀状になっています(笑)。まさに生死確認です。

 その年賀状は、印刷での特質を掴んでいる年賀状という点では特筆すべき年賀状で、印刷の場合は、言葉の内容が重要だと言えそうです。そこに差別化のおもな要素があるからです。筆文字年賀状は、逆に多く書くことを苦手とします。筆の線条で、書かれている以外の気分を伝えるのです。

 結論的にいうのなら、筆文字の年賀状は、筆の弾力を思う存分発揮して、「賀正」「謹賀新年」「あけましておめでとう」などの賀詞を中心に、じっくりしっかり筆を運ぶ身体運動を伴う事で、清新な、また、厳粛な、年始の挨拶という伝統的な儀礼文化をつなげているといえるでしょうか。

 印刷中心のものは、形式になりがちなので、言葉やデザインの差別化が必要と思いますが、現在の年賀状を取り巻く状況は、印刷全盛。

 それでも、手書き。できれば筆文字を使うと、書いた本人は、気にいらないものばっかりできてしまうかもしれません。だけど、もらった相手はやはり書いた人のぬくもりを感じるのではないでしょうか。そこには、実は、あまり上手いとか下手とか関係ないのです。丁寧だとか、そこからのエネルギーだとか、そんなことを感じてくれるんだと思います。 上手く書くことは書家にでも任せて、存分に、ゆっくり、じっくり、新年を寿ぐ気持ちで書けばいいんです。

 筆文字の年賀状は、書きながら上手くいかない所が気になるかもしれませんが、それをひとつひとつクリアするほどに書きこんで、自分自身を高める一年に一回の稽古としてみると、相当なものでもあると思います。

 自分と対話し、送る相手と対話できるのは、筆文字年賀状が一番だと思います。  そんなわけで、自分自身の気づきのためにも年賀状を利用するのは悪くないと思います。

表書きはどう書くか

 はがきに裏表あり、住所氏名を書く方を表、文面を書く方を裏とします。  郵便番号が今は七桁。最後の番地を書けば着いてしまいそうですが、略しすぎて失礼な感じに思うのは、習慣でしょうか。

 そういう意味では、都道府県名は省いて、住所が二行くらいに納まるのがいいようです。  そして二行目は悩まず、上から書いていいと思います。氏名が来るので、中途半端な位置での二行目の書き出しはかえってバランスをくずします。 氏名は大きく、そして「様」はなお大きく書いていいでしょう。

「右」上手?「左」下手?どっちがいいとは一概にいえない。(※住所はサイトを運営している日貿出版社のものです)

 ここまで書いたところで改めて手元にあれば自分が書いたものを眺めてみましょう。  賀詞を書いた。添文を書いた。でもまだスペースが空いている? 写真を入れようかな? やっぱり子どもがサマになる? となる方も多いですが、親戚ならいざ知らず、“どうでもいいよ”という人もいるので要注意とか。結局、自分が気にしている世界が出るのが年賀状なのだ思います。

 賀状を書く心持ちというのは、自分がハレの挨拶をするつもりで書けばいいのだと思います。そして、手書きは身体性を伴いますから、字を鍛える。すなわち、身体を鍛える。そんなつもりで、稽古です。

 書き始めると、はじめの方が下手であとの方が上手。でもはじめの方に、上司や恩師宛てに書いちゃった。  そんな時は来年にはまた相当上手くなった姿が見せられるのだから、いいじゃない、と思いましょう。

ここでの上手いは、ただの上手じゃありません。

 書き慣れてくれば、一画目から二画目、二画目から三画目へと、筆脈が自然と流れてきます。だんだんしっかり書いていくことにもなって、自分なりの心に合った表現がでてくるのです。  今の方々は手書きが少ないので、書いてきた自分の証明のような字を書く人が少ないです。自分の心と一致するまで書いていって、上手い書ではなく、自分らしい字を書いていってほしいです。

年賀状は、書くことからはじまる身体性復権の稽古でもあります。

 あとは心に映った美しさがあれば、そこに近づけるイメージを持ち続けることでしょうか。書くという行為は、心が喜ぶ稽古だと思います。  新しい年を迎えるための最後の稽古、それが年賀状なのです。

そんなわけで、私もこれから書きます。

 ※最後に、初心者がいきなり筆文字がさまになる方法を、

  1. ゆっくり書く

  2. 起筆、終筆でしっかりとまる。とくに縦画の起筆は、ぐっと打ち込む。

  3. 同じ大きさで書けなくてもいい。大きさは違う。まず自然に委ねる。

  4. 横画細く、縦画太く書く意識でまず行こう。

  5. 一字のなかで、横画一本だけ長く書く。

まずは、その辺から。いい呼吸をして、どうぞ。

(第十回 了)

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-- Profile --

小熊廣美(Hiromi Ogura)

著者●小熊廣美(Hiromi Oguma)

雅号●日々軌

1958年埼玉生まれ。高校時代に昭和の名筆手島右卿の臨書作品を観て右卿の書線に憧れ、日本書道専門学校本科入学。研究科にて手島右卿の指導を受ける。

その後北京師範学院留学、中国各地の碑石を巡る。その後、国内ほかパリ、上海、韓国、ハンガリーなどで作品を発表してきた。

書の在りかたを、芸術などと偏狭に定義せず総合的な文化の集積回路として捉え、伝統的免状類から広告用筆文字まで広いジャンルの揮毫を請け負う。そして、子どもから大人までの各種ワークショップやイベント、定期教室において、また、書や美術関連の原稿執筆を通じ、書の啓蒙に務めながら、書の美を模索している規格外遊墨民を自認している。

〈墨アカデミア主宰、一般財団法人柳澤君江文化財団運営委員、池袋コミュニティカレッジ・NHK学園くにたちオープンスクール講師など〉

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