UFCとは何か? 第七回 「初のブラジル大会“ヴァーリ・トゥード”の故郷へ」
現在、数ある総合格闘技(MMA)団体のなかでも、最高峰といえる存在がUltimate Fighting Championship(UFC)だ。本国アメリカでは既に競技規模、ビジネス規模ともにボクシングに並ぶ存在と言われている。いや、「すでにボクシングを超えた」という声すらある。2016年のUFCのペイ・パー・ビュー(Pay-Per-View=1回ごとに料金を払って視聴する方式、略称PPV)契約件数では、年末のロンダ・ラウジー復帰戦が110万件だったほか、合計5大会が100万件超でアメリカ・スポーツ界の新記録をたたき出したのだ(*1)。だが、アメリカで隆盛を極めているMMAの歴史を振り返れば、その源には日本がある。大会としてUFCのあり方に大きなヒントを与えたPRIDEはもちろん、MMAという競技自体が日本発であるのはよく知られるところだ。
そこで本連載ではベテラン格闘技ライターであり、昨年4月までWOWOWで放送していた「UFC -究極格闘技-」で10年間解説を務めていた稲垣 收氏に、改めてUFCが如何にしてメジャー・スポーツとして今日の成功を築き上げたのかを語って頂く。 競技の骨組みとなるルール、選手の育成、ランキングはもちろん、大会運営やビジネス展開など、如何にして今日の「UFCが出来上がったのか」、そして「なにが日本とは違ったのか?」を解き明かしていきたい。
(*1 これまで1つのスポーツで、PPV契約が100万件を超えた大会が年間最も多かったのはボクシングで、年3回。マイク・タイソン全盛期の1996年と、フロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオが全盛期の2011年)
世界一の“総合格闘技”大会―― UFCとは何か?
The Root of UFC ―― The World Biggest MMA Event
第七回――「初のブラジル大会“ヴァーリ・トゥード”の故郷へ」
著●稲垣 收(フリー・ジャーナリスト/元WOWOW UFC解説者)
前回の記事から少し間が開いたので、ここまでのUFCの状態を、ざっとおさらいしておこう。
有力上院議員ジョン・マッケイン(後の大統領選でのオバマのライバル)らのバッシングを受け、「野蛮で危険な大会」というレッテルを貼られたUFCは多くの州で大会開催を禁じられ、南部の田舎町でドサ回り興行を続けつつ、少しずつルールを改正し、健全な「スポーツ」として認められようと努力を重ねてきた。
1997年12月には初めての日本大会が開催されて桜庭和志が初参戦、カーウソン・グレイシーの弟子を破って“日本格闘界の救世主”と呼ばれた。初期UFCで活躍したケン・シャムロックの義弟フランク・シャムロックも、この大会でUFCデビューし、レスリング金メダリストに16秒で秒殺一本勝ちして初代UFCライトヘビー級(当時はミドル級と呼ばれた)王者となった。
その後行われたUFC16とUFC17について、前回は書いた。UFC17からノー・ホールズ・バード(No Holds Barred=「何でもあり」、略称NHB)という俗称を改め、ミックスト・マーシャル・アーツ(Mixed Martial Arts=「ミックスした格闘技」→「総合格闘技」、略称MMA)という名称を公式に使うことにした。これによって「野蛮なケンカ」などではなく、「しっかりしたルールのあるスポーツ」なのだという認識を世間に浸透させようとしたのだ。
しかし、それでもまだアメリカの大都市では開催が難しく、大手ケーブルTVのPPVからも締め出されたUFCは経済的に追い込まれ、「数年もすれば破産するだろう」とまで囁かれた。
UFC17のライトヘビー級トーナメントで優勝した五輪レスラー、ダン・ヘンダーソンは、王者フランクに挑戦すると見られていたが、UFCに継続参戦せず、前田日明率いる日本のリングスへの参戦を選んだ。
ダンヘンとチームメートのランディ・クートゥアも、彼より早く98年10月にVale Tudo Japan 1998(ヴァーリトゥード・ジャパン98)に参戦、その後はリングスに出場と、戦いの場を日本に移していた。
リングスは91年の旗揚げ以来WOWOWが放送しており、毎年WOWOWから巨額の放映権料が入っていた。これによって高額な賞金(第1回の優勝賞金は20万ドル=約2300万円)を賭けたKOK(キング・オブ・キングス)トーナメントを開催することができたのだ。
当時のUFCのファイトマネーは、ライトヘビー級王者のフランクでも、UFC16での初防衛戦でもらった額が3万ドル(約385万円)である。UFCに参戦したばかりのダンヘンのファイトマネーは、かなり低かったはずだ。
高額賞金を目指してUFCを離れ、リングスの第1回KOKトーナメントに出場したダンヘンは、オランダのギルバート・アイブル、ブラジルのアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、レナート・ババルら5人を破って第1回KOKトーナメントの優勝者となり、優勝賞金20万ドルを獲得したのだ。
翌2000年の第2回KOKトーナメントにはダンヘンの代わりにチームメートのランディが参戦するが、準決勝でアリスター・オーフレイムの兄のヴァレンタイン(オランダ)にギロチン・チョークで敗れた。優勝は決勝でヴァレンタインを肩固めで破ったノゲイラだった。
当時のリングスにはダンヘン、ランディ、ノゲイラ、アリスターら、その後PRIDEやUFCで大活躍する選手が多数参戦していたことは記憶しておくべきだろう。
この時期の日本の格闘界はTV局のバックアップもあって、立ち技のK-1、総合のリ
ングス等が大会場での大会を頻繁に開催し、97年に高田延彦vsヒクソン・グレイシーをメインとして始まったPRIDEも、UFCジャパンでカーウソン・グレイシーの弟子のマーカス・“コナン”・シウヴェイラを破った桜庭和志が97年12月のPRIDE2から参戦、98年6月のPRIDE3では、1ヵ月前のUFC17でダンヘンと激闘を繰り広げたばかりのカーロス・ニュートンに一本勝ちし、その後もブラジル人ファイターを次々に撃破し、PRIDE人気も高まりつつあった。
一方UFCは、98年5月のUFC17から次の大会を開催するまで、5ヵ月も間が空いてしまう。その上、米国での開催でなく、ブラジルのサンパウロでの開催だった。
当時UFCはほぼ2、3ヵ月に1度大会を開いていたが、このとき5ヵ月も間が空いたのは、経営の苦しさを物語っている。
グレイシー一族の故郷ブラジルを2度目の海外大会開催地に
UFCは、日本に続く2度目の海外大会開催の地として、ブラジルを選んだ。
このUFCブラジルは人口1100万人を擁する南米最大の都市サンパウロで開催された。 ブラジルはUFC1、2、4のトーナメントで優勝した柔術家ホイス・グレイシーの出身地であり、「ヴァーリ・トゥード」発祥の地でもある。「ヴァーリ・トゥード」とは、ブラジル・ポルトガル語で「何でもあり」。つまり前述した英語のNo Holds Barredと同じ意味だ。英語の方は、holdは「技」という意味であり、したがって「禁じられる(barred)技はない」というのが直訳だ」(*2)
総合格闘技のルーツである日本とブラジルに、経営難に苦しむUFCが活路を見出そうとして進出したのは興味深い。
ここでまず、UFCが生まれる以前からブラジルで行われていた「ヴァーリ・トゥード」について見ていこう。
*2 UFC創始者のひとりであるホリオン・グレイシー(ホイスやヒクソンの兄)が、ブラジルで昔行われていた「ヴァーリ・トゥード」をベースにUFCのコンセプトを考えたとき、「ヴァーリ・トゥード」の英訳として、このNo Holds Barredの語を当てたのかもしれない。
ただ、アメリカには1952年公開の『No Holds Barred』というタイトルの、プロレスを舞台にしたB級コメディ映画があり、1989年には同じタイトルで、プロレスラーのハルク・ホーガンが主演した映画も作られた(日本では『ゴールデンボンバー』の邦題で1990年公開)。
ホリオンと共にUFCを創設したメンバーには映画監督のジョン・ミリアスもいる。『風とライオン』(ショーン・コネリー主演、1975年)や名作サーフィン映画『ビッグ・ウェンズデー』(1978)、アーノルド・シェワルツェネッガーの出世作『コナン・ザ・グレート』(1982)など多くのヒット作を飛ばした名監督だ。彼らが話し合って、当初はNo Holds Barredというキャッチフレーズを使ってUFCをプロモートしていくことにした可能性もある。
思惑通り「何でもあり」の過激さが最初の内はウケたが、まもなくそれが逆に批判・バッシングの対象となってしまい、UFC17からはNHBという言い方はやめて、ミックスト・マーシャルアール(MMA)という言い方にキャッチフレーズを変えよう、とUFC自体が言い出すことになったのは、皮肉な話だ。
UFC以前のヴァーリ・トゥード
ブラジルでは1920年代から、この「ヴァーリ・トゥード」が行われていた。 1924年9月24日付の米・タイム誌(Time Magazine)にも、Jiu Jitsuというタイトルで、そうした試合に関する記述がある。以下にざっと翻訳して引用しよう。 「ブラジルのサンパウロで先週、サーカスが開催されたが、サーカスの最後に最高の呼び物として、レスリング・マッチが行われ、バイーア州出身の無名の黒人の巨漢と、小柄で愛想のいい無名の日本人が戦った。数分間組み合った後、バイーアの黒人は日本人を背中に背負ったが、日本人は回転して相手を嘲笑し、試合の最後には黒人の上に乗って、まるで総理大臣のように座り、相手にうめき声を上げさせた」
「総理大臣のように座り」という表現が独特で面白い。
なお、この記事で「日本人」はJap(日本人の蔑称)、「黒人」はnegro(黒人の蔑称「黒ん坊」といった感じ)と書かれている。現在ならblackとかAfro-Brazilianと書かれるところだろう。
また、同年10月28日付の米ワシントン州シアトルの日系米国人向け英字紙『ジャパニーズ・アメリカン・クーリエ』(Japanese-American Courier)紙にも、同じ試合に関するものと思われる記事がある。同じく、ざっと訳す。
「サンパウロからのあるレポートによると、柔術は真のアートであり、大きなサーカスのサイドテントで、バイーアの黒人の巨漢が、小さな日本人格闘家に大敗を喫したという。黒人は南米の伝統格闘技カポエィラの達人だが、日本人を背中に乗せ、彼の頭を蹴ろうとしたが……小柄な東洋人は柔術の技でバイーア人を投げ飛ばし、しばしの格闘の後、静かになった巨大な敵の体の上に乗っていた」
(ただし、こちらは上記URLの記事中で引用されているものの、孫引き。オリジナルは見つからなかったので、あしからず)
こちらの記事ではバイーア州の黒人が、ブラジルの奴隷の間で生まれた足技主体の格闘技「カポエィラ」の使い手であることが書かれている。なお、こちらの記事でも黒人のことはnegroと書かれているが、日系人向けの新聞だけに「日本人」はJapでなくJapaneseと書かれている。
講道館の強豪柔道家だった前田光世が、世界各地を旅してさまざまな格闘家たちと戦った末にブラジルにたどり着き、グレイシー一族に「柔道」あるいは「柔術」(前田や当時の柔道家の多くは自分たちの技を「柔術」とも「柔道」とも言っていた)を手ほどきし、それが発展して「グレイシー柔術」となり、後に初期UFCでホイスが活躍して世界に「グレイシー柔術」あるいは「ブラジリアン柔術」が広がった。なので、ひょっとしてこの「小柄な日本人格闘家」というのは前田のことか、と考えたくなる。前田は身長164センチほどだったというから、当時の日本人としては小さくないが、ブラジル人と比べれば「小柄」だ。 だが、前田は1878年生まれなので1924年には46歳になっているし、前田の名はブラジルの格闘界ではすでに知られていたであろうから、この記事の「日本人」が前田だった可能性は低いかもしれない。
前田以外にも南米に渡って試合をしていた日本の柔道家・柔術家たちはいたので、その中のひとりが、この「小柄な日本人」だったのかもしれない。あるいは、前田の教えを受けた日系ブラジル人か……。 それはさておき、こうした「ヴァーリ・トゥード」は、前田が柔術を教えたカーロス・グレイシーらグレイシー一族によってブラジルでポピュラーになっていった。
1922年にアマゾンからリオ・デジャネイロに移り住んだカーロスは、最初の柔術道場(グレイシー・アカデミー)を開き、新聞に広告を出した。
「顔をブン殴られたり、ぶちのめされたり、腕を折られたいと望む者は、カーロスおよびグレイシー・アカデミーに連絡されたし」
という挑発的なものだ。
これを見た空手家やカポエィラ使い、ボクサーなどが、グレイシー・アカデミーに行って挑戦し、グレイシー一族はこれを迎え撃った。
ヒクソンの父エリオ・グレイシーの「ヴァーリ・トゥード」
カーロスの末弟で、柔術を始める前はひよわだったというエリオ(ホリオンやヒクソン、ホイスの父、1913-2009)が、一族を代表して戦うことが多かった。
エリオは1930年代にボクサーやアメリカのプロレスラーなど、自分より大きな人間を相手に戦い続け、多くの勝利を収めた。
筆者は1990年代にエリオの息子ホイスやヒクソンを取材した際にエリオに何度も会ったことがあるが、小柄な人で80歳を超える年齢にもかかわらずとても元気で、雑誌取材のためにホイスに技をかけて見せてくれと頼むと、喜んで応じてくれた。 写真撮影のため「もう一度同じ技をホイスにかけてほしい」とカメラマンが頼むと、「父さんの技はすごく痛いから、もうかんべんしてくれよ!」とホイスがボヤいていたのが記憶に残っている。
さて、エリオは1951年10月にリオのマラカナン・スタジアムで、“鬼の木村”と呼ばれた不世出の柔道家・木村政彦(1917-1993)との柔道・柔術対決をしたことでも有名だ。この試合にはブラジル大統領を含む2万人以上の観客が集まった。投げや抑え込みによる一本はなく、タップ(参った)するか、絞めで失神するまでというルールで行われたこの試合では、体重で40キロ以上重い木村が、腕がらみ「キムラ・ロック」でエリオの腕を折り、エリオはタップしなかったが、セコンドが試合場に入って止め、木村が勝利した。 しかし、この木村戦に先立つ9月に、エリオは木村の講道館での練習仲間の加藤幸夫を絞め落として勝利している。
エリオの「ヴァーリ・トゥード」の試合で最も有名なのは、1955年5月に、元弟子だったヴァウデマール・サンタナと戦った試合である。当時41歳だったエリオは、10歳若く、体格でもまさるサンタナと3時間40分におよぶ死闘を繰り広げたが、最後はサンタナのサッカーボール・キックで顔面を蹴られて失神した。
エリオを引き継いだカーウソン
エリオの仇を討ったのが、カーロスの長男でエリオの甥のカーウソン(1932-2006)だ。 1955年10月8日にリオのマラカナジーニョ・スタジアムで行われたカーウソンvsサンタナの試合には3万人の観衆が集まり、スタジアムに入りきれない5000人の人々が外から歓声を送っていた。試合開始後39分、サンタナのセコンドがタオルを投入し、カーウソンが勝利しグレイシー一族の新エースとして叔父エリオの無念を晴らした。
カーウソンはサンタナと通算6度戦って4度勝利し2度引き分けたほか合計18戦ほどの「ヴァーリ・トゥード」を戦い、その多くに勝利した。引退後は、名指導者としてヴィトー・ベウフォートやムリーロ・ブスタマンチ、マリオ・スペーヒー、アンドレ・ペデネイラス、アラン・ゴエスなど多くの名選手を育てることになる。
ブラジルでテレビ放送された「ヴァーリ・トゥード」
しかしブラジルで「ヴァーリ・トゥード」が大きな人気を博するようになったのは、1959年にリオ・デジャネイロのテレビで『リングのヒーロー』(Heróis do Ringue、「エロイス・ド・ヒング」と発音)という番組が放送されてからだ。この番組はカーウソンらグレイシー一族がホストを務め、毎週月曜日に彼らの弟子の柔術家が他の格闘技の選手たちと戦った。
だが、エリオの高弟であるジョアン・アルベルト・バヘート(後にUFC1でレフェリーを務める)がジョゼ・ジェラルドと対戦した際、キムラ・ロック(アームロックの一種、「腕がらみ」)でジェラルドの腕を骨折させたため、放送を見た視聴者から抗議が殺到してテレビ放送はなくなり、以後「ヴァーリ・トゥード」はリオ・デジャネイロで禁止となって、1980年代になるまでブラジル南東部ではほとんど行われず、ブラジル全体でもマイナーな存在となっていった。
伝説の一戦“ヒクソンvsズール”
「ヴァーリ・トゥード」が再びブラジルで注目を集めるようになるのは、1980年、エリオの三男ヒクソンが、一族の宿敵であるサンタナの弟子、ヘイ・ズール(Rei Zulu、「ズール王」の意、本名カシミロ・ナシメント・マルティンス、日本では「レイ・ズール」とも表記されるがブラジル・ポルトガル語では語頭のRは日本語の「ハ行」に近い音となる。Rickson=「ヒクソン」のように)と対戦した時だ。
ズールはそれまでの17年間、150戦無敗を誇り、グレイシー一族に挑戦状を叩きつけ、誰がブラジル最強か決めようと言った。
そこでエリオは、やはり無敗だった三男のヒクソンに、この大役を与えた。ヒクソンは当時21歳の青年だった。
1980年4月25日に行われたこの試合はブラジルでテレビ放送された。 序盤は身長194センチ、体重約100キロのズールが、身長で16センチ、体重で15キロまさる体格差を活かして試合を優勢に進めたが、開始から11分55秒、ヒクソンが裸締めで逆転勝利した。 両者は1984年に再戦するが、この時もヒクソンがズールに一本勝ちしている。 だが、ズールもこの84年の11月には、キックボクサーのセルジオ・バタレッリに2分24秒で一本勝ちしている。
父エリオ、叔父カーウソンの跡を継ぎブラジルでのヴァーリ・トゥードでズールと戦ったヒクソン・グレイシー。その後はヴァーリ・トゥード・ジャパンのトーナメントで2度優勝した後、PRIDEで高田延彦を2度破り、コロシアム2000で船木誠勝に一本勝ちした試合を最後に引退。現在は、息子のクロンが一昨年末からRIZINに参戦、ヒクソンもセコンドとして来日している。(撮影筆者 2015年)
90年代ブラジルの「ヴァーリ・トゥード」
ズールに敗れたバタレッリは、後にプロモーターになり、UFCブラジルの1年3ヵ月前の1997年7月に「インターナショナル・ヴァーリ・トゥード・チャンピオンシップ」(IVC)という大会を興している(*3)。このIVCは主にサンパウロで行われて、テレビ放送もされ、ブラジルでの主力「ヴァーリ・トゥード」大会の1つとなった。UFCのような金網でなく、通常のリングで試合を行い、初期UFCのように素手で殴り合い、頭突きも金的攻撃も許されていた。試合時間も30分という長い試合が多かった。
このIVCとともに1990年代のブラジルで主力ヴァーリ・トゥード大会だったのが「ワールド・ヴァーリ・トゥード・チャンピオンシップ」(WVC)で、第1回大会は1996年4月に東京ベイNKホール(東京ディズニーランドのそばにあった)で開催された。これには、初期UFCで活躍したマルコ・ファスやオレグ・タクタロフも参戦した。WVCの第2回大会以降は、99年2月のWVC7まで、ブラジルで開催される(*4)。
それ以外に、この時代のブラジルの大きなヴァーリ・トゥード大会は「ユニヴァーサル・ヴァーリ・トゥード・ファイティング」(UVF)である。第1回大会は1996年4月に東京・駒沢オリンピック公園の体育館で開催された(*5)。
第3回も東京ベイNKホールで開催されたが、それ以外の4大会はブラジルで開催され、最終大会となったUVF6はUFCブラジルの約1年半前、1997年3月に行われ、カーロス・バヘートがケヴィン・ランデルマンを6人トーナメントの決勝で破って優勝している。 90年代に立ち上げられた、これらブラジルの主な「ヴァーリ・トゥード」大会のうち2つが日本で旗揚げ興行をしているのは興味深い。それほど当時の日本は格闘技ブームであり、ブラジルの格闘家たちの間でも「日本で認められれば、スターになれて大金が稼げる」という認識が広まっていたのだ。そしてリングス、PRIDE、修斗などにも多くのブラジル人選手の参戦が続いた。
*3 1999年4月のIVC10ではヴァンダレイ・シウバがユージン・ジャクソンを破ってライトヘビー級王者となり、ヴァンダレイの先輩の「ペレ」ことジョゼ・ランジ・ジョーンズがジョイユ・ジ・オリヴェイラを破ってミドル級王者となり、カーロス・バヘートはペドロ・オッターヴィオを破ってヘビー級王者となった。その3ヵ月前の99年1月に行われたIVC9では、ハファエル・コルデイロがヘンリー・マタモロスを破ってライト級王者となっている。(コルデイロは、後にヴァンダレイ・シウバ、アンデウソン・シウバ、マウリシオ・ショーグン、ファブリシオ・ヴェウドゥム、ハファエル・ドス・アンジョスらのPRIDEやUFC王者達を育てる名コーチとなる。)IVC9からは西インド諸島のアルバで3度開催した後、2000年にブラジルに戻り、2001年のIVC12まで開催された。
*4 WVC7のメインではイゴール・ボブチャンチンがエドソン・カルヴァーリョを3分16秒でTKO。2ヵ月後の1999年4月、PRIDE5からPRIDEに初参戦し、2000年5月のPRIDEグランプリ決勝でマーク・コールマンに敗れるまで連戦連勝し“北の最終兵器”と呼ばれた。 *5 このUVF1のメインでは、ブラジルにおける柔術の対抗勢力だったルタ・リブリーのペドロ・オッターヴィオが元横綱・北尾光司をヒジ打ちにより5分49秒で破った。 セミでは同じくルタ・リブリーの選手でヒクソンとも伝説の「ビーチ・ファイト」を戦ったウゴ・デュアルチが、「デュセル・バット」の名で藤原組に参戦していたデュセル・ベルト(後のボクシング世界王者アンドレ・ベルトの父で、この3ヵ月後のUFC10にも参戦)にアームロックで一本勝ち。カーロス・バヘートも、リングス・ロシア所属のイリューヒン・ミーシャに一本勝ち、カーウソンの弟子のヴァリッジ・イズマイウ(後にUFC12でパンクラスの高橋義生に判定負け、その後ジャングル・ファイトのプロモーターとなる)がデニス・ケファリノスに一本勝ちした。
UFCブラジルでフランクは3度目の防衛 こうした状況の中、UFCの第1回ブラジル大会(UFC17.5)は1998年10月16日にサンパウロのジナシオ・ダ・ポルチュゲーザ(ポルトガル体育館)で開催された。 メインではライトヘビー級王者フランク・シャムロックが、前年1月にハワイの「スーパー・ブロウル」で対戦して判定で敗れたジョン・ローバーと再戦、7分40秒、グラウンドでのパウンドでタップさせ、3度目の防衛に成功した。
初参戦のヴァンダレイ・シウバをヴィトーが秒殺KO しかし、この大会で最も鮮烈な印象を残したのは、カーウソンの弟子のヴィトー・ベウフォートだった。
ヴィトーはUFC12のヘビー級トーナメントで優勝し、UFC13ではタンク・アボットに57秒でKO勝ちするなど、総合デビュー戦から4試合すべてを秒殺勝利していた。UFC15ではランディ・クートゥアに敗れたが、97年末のUFCジャパンではジョー・チャールズに4分3秒で一本勝ちして見せた。ここまで5勝1敗、5勝すべてがKO勝ちだ。このブラジル大会が、それまでヘビー級で戦っていたヴィトーにとって初のライトヘビー級での試合となった。
対するヴァンダレイは、後に“PRIDEミドル級絶対王者”と呼ばれるストライカーだ。こちらも戦績は5勝1敗、5勝すべてKO勝利である。このときヴィトーは21歳、ヴァンダレイは22歳。年も近いが、身長も両者とも約180センチ。 つまり、これは“ブラジルの完全決着男”同士の対戦であった。
UFC初参戦となったUFCブラジルでは、ヴィトーに秒殺KO負けを喫したヴァンダレイ・シウバ。だが、その後99年から参戦したPRIDEでは連戦連勝し、桜庭和志にも3度勝利して“PRIDEミドル級絶対王者”の称号を得た。UFCにもその後、復帰して活躍した。(撮影筆者)
試合が始まると、両者はしばらく間合いを探り合いヴァンダレイがローを出し、サウスポーのヴィトーはパンチでカウンターを狙う。 開始後37秒ごろ、ヴァンダレイがパンチを入れようと距離を詰めた瞬間、ヴィトーのカウンターの左ストレートが炸裂。ヴィトーはそのまま左右のパンチを叩き込みながら前進し、のけぞりながら後退するヴァンダレイを殴りまくり、金網際で崩れ落ちるヴァンダレイに休むことなくパンチを入れると、レフェリーのビッグ・ジョン・マッカーシーが試合を止めた。
まさに「光速」と呼ぶにふさわしいパンチの連打で、ヴィトーが44秒でKO勝利したのだ。ヴィトーは7秒間の内に20発近いパンチを放ち、そのほとんどを着弾させている。現地の実況アナも「UFC史上最も速いパンチの連打です!」と絶叫していた。 勝利したヴィトーは“サンパウロの英雄”となり、セコンドについていた師匠カーウソンからも抱擁され、勝利を称えられた。カーウソンはこの時66歳。長い年月を経て、グレイシー一族の遺伝子を継ぐ者がブラジルの地で勝利するのを見て、感無量だっただろう。 カーウソンはヴィトーのことが大のお気に入りで、養子にしようとしたことさえあったほどなのだ。
この大会には、UFC16のウェルター級(当時は「ライト級」と呼ばれた)トーナメントで優勝したクロアチア系アメリカ人のパット・ミレティッチも出場し、マイキー・バーネットと初代ウェルター級王者決定戦を行った。そして2-1のスプリット判定で王座を獲得している。 ヘビー級ではUFC16でオクタゴン・デビューした髙阪剛も参戦、コールマンをKOしたピート・ウィリアムスと対戦し、判定勝利した。
ファスの弟子・ヒーゾもオクタゴン・デビュー
同じくヘビー級で、マルコ・ファスの弟子のブラジル人ストライカー、ペドロ・ヒーゾがUFCデビューし、タンク・アボットと対戦した。ヒーゾはムエタイのブラジル王者で、“打撃格闘技王国”オランダのチャクリキ・ジムにも96年から出稽古に出かけ、トム・ハーリンク会長のもと、K-1王者のピーター・アーツらと一緒に猛特訓し、強力な打撃にさらに磨きをかけていた。ここまで5戦全勝、すべて完全決着勝利である。
一方タンクの戦績は8勝6敗。UFC13でヴィトーに、UFC15でモーリス・スミスに敗れたが、UFCジャパンでは安生洋二を判定で降し、UFC17ではウゴ・デュアルチに43秒でTKO勝利しており勢いを取り戻しつつあった。
ヒーゾは24歳、タンクは33歳。体重はタンクが約120キロで20キロ重い。
試合が始まると、タンクは大ぶりなパンチを振り回しながら前進するが、ヒーゾはバックステップしながらカウンターの右パンチを当ててダウンさせ、起き上がろうとするタンクにさらに追撃のパンチを叩き込む。
上四方の形から両者は立ち上がり、タンクがまたパンチを振るって追うが、組み合いとなり、離れぎわにヒーゾの右がまたヒットする。 ヒーゾも左目の上から出血するが、疲れて動きの遅くなったタンクにローキックを入れまくり、ブラジルの観客から大きなヒーゾ・コールが起こる。 タンクはタックルでグラウンドに持ち込む。ヒーゾはギロチンを仕掛けようとするが、ならず。 グラウンドで下になってガード・ポジションからヒーゾが打撃を入れると、またもヒーゾ・コールが起こる。 タンクは上をキープしているが、パスガードできず、あまり効果的な打撃も落とせない。むしろ下からのヒーゾの打撃の方が有効だ。
6分40秒すぎ、ブレイクがかかり、スタンドで再開。またも、ヒーゾの右ローが入りまくる。タンクのパンチは空を切るばかり、ヒーゾは右ローでタンクの右腿の同じところを蹴り続ける。そしてタンクのパンチをよけ、カウンターの右ストレートで再びダウンを奪う。 タンクはなんとか立つが、またも右ローを叩き込み、直後に右ストレートでタンクの顎をきれいに打ち抜いてKOした。8分7秒のKO勝ちだ。会場は大歓声に包まれ、セコンドについていたホベルト・レイタウン・フィリョら仲間たちからヒーゾはもみくちゃにされて祝福された。新たなヘビー級の新星の誕生だった。以降、ヒーゾはUFCヘビー級のトップ戦線で活躍していくことになる。
後に船木と戦うブラガ参戦、試合巧者ホーンと対戦 UFCブラジルでは、ライトヘビー級でブラジルのエベンゼール・フォンテス・ブラガとジェレミー・ホーンの試合も組まれた。 ブラガは96年にズールを破り、97年にはUVC6でケヴィン・ランデルマンに、IVC1でダン・スバーンに敗れたが、この98年8月にはIVC6でアメリカのブランドン・リー・ヒンクル(後にリングスに参戦)に三角締めで勝っている。 フランクを相手に善戦したホーンを、ブラガはスタンド状態でのギロチン・チョークにより、3分27秒で降している。
ブラガはこの実績を買われて翌99年4月に来日し、横浜文化体育館でパンクラスのエース、船木誠勝と対戦し、引き分けている。
この時期の船木は、UWF時代の先輩・高田延彦を2度破ったヒクソン・グレイシー打倒を目指していた。ヒクソンは98年10月にPRIDE4で高田と再戦し、9分30秒、またも腕十字で一本勝ちしていたのだ。 ヒクソンを倒すため船木はパンクラス・ルールより「ヴァーリ・トゥード」に近い、ヒジ打ちや頭突きもありの「パンクラチオン・マッチ」での試合を行っており、98年12月にはジョン・レンケンに一本勝ちし、ブラガと引き分けた後は、99年9月にトニー・ペテーラに66秒で勝利している。そして2000年5月に東京ドームで開催されるコロシアム2000でヒクソンと対戦するのだ。だが、この試合については、別の機会に書こう。
ちなみに、この時期のパンクラスは98年には15大会、99年には13大会も興行を行っていた。後楽園ホールなどの小さめの会場での大会も多いが、それにしても、今の日本の格闘技大会と比べると、すごい興行数である。
また、ヒクソンが高田と再戦したPRIDE4は、このUFCブラジルが行われた98年10月16日(日本時間17日)の約1週間前の10月11日に東京ドームで3万6千人の大観衆を集めて開催された(*6)。
格闘技興行の規模でも数でも、この頃は日本がアメリカを凌駕していたのだ。UFCがこれを逆転するまでには、まだ何年もが必要だった。しかし重大なターニング・ポイントとなる出来事は、近づいていた。
*6 このPRIDE4では桜庭和志がカーウソンの弟子のアラン・ゴエスと対戦して引き分け、イゴール・ボブチャンチンはゲーリー・グッドリッジに5分58秒でKO勝ちした。そして小路晃はやはりカーウソンの弟子のイズマイウにTKO勝利し、アレクサンダー大塚もマルコ・ファスにTKO勝利している)。
(第七回目 了)
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--Profile--
UFC190の生中継後、WOWOWのスタジオにて高阪剛選手と。
稲垣 收(Shu Inagaki)
慶応大学仏文科卒。月刊『イングリッシュ・ジャーナル』副編集長を経て、1989年よりフリー・ジャーナリスト、翻訳家。ソ連クーデターやユーゴ内戦など激変地を取材し、週刊誌・新聞に執筆。グルジア(現ジョージア)内戦などのTVドキュメンタリーも制作。1990年頃からキックボクシングをはじめ、格闘技取材も開始。空手や合気道、総合格闘技、ボクシングも経験。ゴング格闘技、格闘技通信、Kamiproなど専門誌やヤングジャンプ、週刊プレイボーイ等に執筆。UFCは第1回から取材し、ホイス・ グレイシーやシャムロック兄弟、GSPらUFC歴代王者や名選手を取材。また、ヒクソン・グレイシーやヒョードル、ピーター・アーツなどPRIDE、K-1、リングスの選手にも何度もインタビュー。井岡一翔らボクサーも取材。
【TV】
WOWOWでリングスのゲスト・コメンテーター、リポーターを務めた後、2004年より、WOWOWのUFC放送でレギュラー解説者。また、マイク・タイソン特番、オスカー・デ・ラ・ホーヤ特番等の字幕翻訳も。『UFC登竜門TUF』では、シーズン9~18にかけて10シーズン100話以上の吹き替え翻訳の監修も務めた。
【編著書】
『極真ヘビー級世界王者フィリオのすべて』(アスペクト)
『稲垣收の闘魂イングリッシュ』(Jリサーチ出版)
『男と女のLOVE×LOVE英会話』(Jリサーチ出版)
『闘う英語』(エクスナレッジ)
【訳書】
『KGB格闘マニュアル』(並木書房)
『アウト・オブ・USSR』(小学館。『空手バカ一代』の登場人物“NYの顔役クレイジー・ジャック”のモデル、 ジャック・サンダレスクの自伝))